1-2-7 岩峠

 近世の秋月街道(香春(かわら)道、猪膝(いのひざ)街道、小倉(こくら)街道)は、長崎街道が主要な街道になるまでは小倉から久留米方面へ向かう戦国時代の主要な街道でした。田川地域では、糸飛と岩峠が難所とされてきました。小笠原の藩主が巡視のために新町から曲がりくねった道を登り岩峠で休息するとき、水茶屋(現在の田川小学校の上手の右にあった)で休息したそうです。
 明治初期の岩峠の様子を「後藤寺(ごとうじ)へは昼間でも女一人では恐くて行けませんでした。栄町の辺りには家は一軒もなく、裁判所、三井の本部辺りは陽の目も拝めぬくらいに木が茂っていました」と慶応元(1865)年生まれの植木要(うえきかなめ)さんは語っています。明治33(1900)年の「陸地測量部地図」と伊能忠敬の「伊能大図」を重ねると、三井田川鉱業所本部事務所跡地や田川市役所を通る旧道と重なります。
 明治20(1887)年に県道の猪膝・香春間の糸飛および岩峠の改修工事が地元民753円寄付と地方税376円で行われました。同年12月田川採炭会社の創業によって石炭産業が盛んになり、明治29(1896)年に鉄道後藤寺駅(現田川後藤寺駅)まで開通しました。それまでは、後藤寺や大藪の石炭も人力や車力などで宮床(みやとこ)まで運ばれ、水運が利用されていました。さらに、大正2(1913)年には岩峠が開削され大正4(1915)年に開削記念碑が建立されています。斉藤五百枝の「炭坑漫画」にもこの記念碑が描かれています。
 

岩峠の切通と栄町
絵:是澤清一

岩峠大師堂(大正12年)
提供:十輪院

 
参考文献
藤本孝棟(1923)『西部田川新四國寫眞帖』田川郡大任村十輪院新四國本部.
和田泰光(1930)『伊田町誌』筑豊之実業社.
永末十四生(1954)「番田ごうらの流れに生きて」『郷土田川』1-1,田川郷土研究会.
筑豊石炭礦業史年表編纂委員会(1973)『筑豊石炭礦業史年表』田川郷土研究会,西日本文化協会.
田川市史編纂委員会(1979)『田川市史 中巻』田川市.
 
地図
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
『伊田町全圖』大正13(1924)年 伊田町役場.
小倉鐵道沿線名所圖繪』昭和3(1928)年 小倉鉄道.
鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.  各地点を見る→ 後藤寺