18世紀中頃には宗像郡の塩浜で利用されはじめ、18世紀末には博多でも筑豊の石炭は利用されています。その頃の炭坑は狸堀(たぬきぼり)などと称され、小さな坑道です。撞木杖(しゅもくづえ)という30cmほどの杖をついて坑道内で石炭を運び、セナで担ぎテボという篭に背負って、川艜(かわひらた)にのせて運搬されていたようです。19世紀中頃、彦山川(ひこさんがわ)では川渡り神幸祭の渡り場所から番田(ばんだ)橋にかけて番田(ばんだ)の船場があったと伝えられています。また、後藤寺や弓削田の石炭も中元寺川(ちゅうがんじがわ)の宮床の船場から赤池会所まで運び岩淵で積み替えられ、18世紀末には瀬戸内の塩田まで運ばれました。
絵:是澤清一 |
参考文献
和田泰光(1930)『伊田町誌』筑豊之実業社.
田川市誌編纂委員会(1954)『田川市誌』田川市.
田川市史編纂委員会(1979)『田川市史 中巻』田川市.
地図
『鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.
『筑豊煤田地圖(筑豊炭礦誌)』明治26(1893)年製図 明治31(1898)年発行 中村近古堂.
『小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
『伊田町全圖』大正13(1924)年 伊田町役場.