2-1-1 後藤寺

 江戸初期の1600年代には宮尾弓削田(みやおゆげた)村新町として記録に表れ、1700年代には後藤寺(ごとうじ)町村として記録に表れます。中世の弓削田荘の鎮守春日神社の門前町として香春(かわら)道(秋月街道)に沿って発達したのでしょう。後藤寺の地名は「藤寺」があったという説、『応永戦乱記』にある「五塔寺」から転訛したという説、『豊前村誌』に出てくる「牛頭寺」から転訛したという説があります。明治15(1882)年の小名調では、大字池尻に「牛頭寺原」「牛藤寺」「後藤寺原」、大字宮ノ尾に「後藤寺原」とあります。
 文化10(1813)年10月10日の伊能忠敬の測量経路は後藤寺商店街の通りに平行していたようです。『測量日記』に「枝盛安、後藤寺村、左蛭子宮昼休武兵衛」と出てくる蛭子宮は宝永4(1707)年の頃から上本町字屋敷にあったようです。大黒町の恵比寿神社の縁起によると昭和4(1929)年に字屋敷から遷座しています。後藤寺村で小倉藩の役目で蝋燭(ろうそく)を商う二村武兵衛(にむら ぶひょうえ)宅で、測量隊は昼休みを取っています。『測量日記』には次に「宮尾村左上野追分、枝平松、小川土橋一間ばかり、岩峠上伊田村枝新町」とあり、測量隊は享保の飢饉供養塔のある平松から岩峠を越え、田川市役所付近の旧道を通り新町へ向かいます。参照:測量経路(伊田)
 明治初年に宮尾村から後藤寺村として分村すると、近世からの石炭開発もあって明治20(1887)年には宮尾村と合併し奈良村となりました。明治40(1907)年から後藤寺町として発展します。明治22(1889)年には田川採炭会社炭鉱開発し、明治33(1900)年にそれを買収した三井田川の第一坑が拓かれました。豊州鉄道の後藤寺駅の開業は明治29(1896)年です。後藤寺は明治20年代に発展しますが、伊田は明治30年代に発展しています。また、森鴎外は明治34年(1901)三井田川によってつくられた平松の百円坂倶楽部に宿泊しています。
 

後藤寺町(昭和9年)の地図
出典:『田川市史中巻』

字屋敷から遷座した蛭子宮
撮影:中野直毅

 
参考文献
松尾正記(1930)『後藤寺町誌』九州時事新聞社.
瓜生敏一(1982)『田川の文学とその人びと』田川郷土研究会.
田川市誌編纂委員会(1954)『田川市誌』田川市.
田川市史編纂委員会(1979)『田川市史 中巻』田川市.
 
地図
鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.  各地点を見る→ 後藤寺
筑豊煤田地圖(筑豊炭礦誌)』明治26(1893)年製図 明治31(1898)年発行 中村近古堂.
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.