2-1-4 新町

 1600年代の『正保年間豊前六郡圖』には伊田、伊田ノ内、伊田ノ内新町とあります。新町には一里塚がありました。1700年前後の『元禄国絵図』には上伊田、下伊田、新町とあり、早くから伊田の新町が形成されていました。大藪峠を越え弓削田から烏尾(からすお)峠を越えて筑前へ向かう道と、猪膝(いのひざ)から香春(かわら)道(秋月街道)で香春を通過し金辺(きべ)峠を超え企救(きく)郡から小倉へ向かう道の交差点でもありました。
 日の出町にある田川信用金庫東支店付近には、「中ノ陣」や「拾丁分」という番所らしき地名や交差点らしき近世地名が残っていました。大正年間には伊田町役場、警部補派出所があったところです。
 伊能忠敬測量日記にも「岩峠上伊田村枝新町、左恵美須社、伊田川仮橋二十間」と出てきます。『伊能大図』でも上伊田村(新町、番田(ばんだ))、下伊田村(鉄砲町、橋本)として描かれています。伊能忠敬は文化10(1813)年10月10日に後藤寺(ごとうじ)から平松を越えて岩峠から、旧三井田川鉱業所本部事務所、田川市役所、中央中学校、新町を通過しながら測量を行っています。逆にたどると、新町から曲がりながら道を登ると田川小学校の上手の右に、巡検時に藩主も利用した水茶屋があったと『伊田町誌』は伝えています。参照:測量経路(伊田)
 明治33(1900)年の地図には新町池はなく草場浦がみえます。明治中頃まで湿地であった新町池の畔に明和4(1767)年と文化9(1812)年8月と刻まれた庚申塔と幸神が移設され、庚申塚と呼ばれています。庚申塚は三度移転しています。新町には林田春次郎の屋敷であった建物が、国登録有形文化財「料亭あをぎり本館・新館」として残されており、この屋敷の丘陵北端に元々の庚申塚がありました。この付近に一里塚があったのでしょう。
 

新町の庚申塚
撮影:中野直毅

 
参考文献
和田泰光(1930)『伊田町誌』筑豊之実業社.
永末十四生(1954)「番田ごうらの流れに生きて」『郷土田川』1-1,田川郷土研究会.
田川市誌編纂委員会(1954)『田川市誌』田川市.
田川市史編纂委員会(1979)『田川市史 中巻』田川市.
清水靖夫、長岡正利、渡辺一郎(2002)『伊能圖』武揚堂.
 
地図
鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.  各地点を見る→ 新町
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
『伊田町全圖』大正13(1924)年 伊田町役場.