2-1-7 享保の飢饉供養塔

 江戸時代の災害のなかでもっとも大きな被害をもたらしたのは、享保17(1732)年におきた享保(きょうほう)の大飢饉(だいききん)です。この年、ウンカ、イナゴが西日本一帯に異常発生してかつてない大凶作となりました。そのため人々は餓(う)えに苦しみ、いたるところに死体が放置されるという状況でさながら地獄絵図であったといわれています。小倉藩は13万人の人口のうち餓死者4万3000人余を出し、田川郡でも人口の4割に相当する6,735人が餓死しました。
 飢饉で亡くなった人を弔うために、各地で供養がおこなわれました。田川市内では、伊田の成道寺境内に宝暦6(1756)年に糒(ほしい)村大庄屋紅田權平吉文により供養塔(宝篋印塔(ほうきょういんとう))が建てられ死者の大供養をおこなわれました。毎年土地の人によって供養がおこなわれていましたが、年と共に廃れ最近では成道寺の住職だけが年に一度その霊を弔っています。
 また定林寺(じょうりんじ)(後藤寺平松)の境内には、餓死者の御霊を収めたと云われる石祠があります。現在のものは、その後再建されたもので、前面左壁に「天保六(てんぽうろく)未年(ひつじどし)再興」と書かれた石柱が埋め込められています。餓死者を弔うためにはじめられた盆踊りは毎年8月24日におこなわれ、現在でも田川地区を代表する盆踊りです。
文化10(1813)年10月10日には伊能忠敬測量隊が大隈(おおくま)から猪膝(いのひざ)、後藤寺(ごとうじ)、平松を経て、新町、伊田、香春(かわら)へ向かっています。山門付近に伊能忠敬の測量経路の痕跡が残っています。
 
 
埋め込められた定林寺の供養塔一部(平成29年)
撮影:長谷川清之

定林寺の供養塔(大正12年)
出典:『西部田川新四國寫眞帖』

成道寺の供養塔(宝篋印塔)
撮影:長谷川清之

 
参考文献
香月靖晴(1985)「筑豊の祭り27田川郡大任町下今任十輪院の地蔵盆」『西日本文化』231,西日本文化協会.
中野直毅(2016)『伊能忠敬の足跡をたどる-後藤寺編-』田川郷土研究会.
藤本孝棟(1923)『西部田川新四國寫眞帖』田川郡大任村十輪院新四国本部.