2-1-9 島村志津摩

 島村志津摩(しまむらしづま)(1833-1876)は嘉永5(1852)年、小倉藩の家老に就任すると、凶作による藩の疲弊に対して、殖産興業による立て直しを行いました。櫨(はぜ)、菜種集荷など国産会所を設け、石炭産業、呼野金山の再興など藩藩政改革を行いました。第二次長州征討(1865-1867)では、幕府が指揮する九州諸藩と、高杉晋作・山縣有朋らが率いる長州藩との小倉戦争が行われました。
 小倉藩軍最高責任者一番備士大将として先制攻撃を主張するも受け入れられず長州藩の優勢な海軍力により侵攻されました。幕府軍はまとまらず孤立した小倉藩は小倉城に火を放って香春(かわら)に退却しました。落城の後、島村志津摩らは、軍を再編し金辺峠に布陣して、農民から募兵して義勇軍を結成、巧みな用兵によって遊撃戦を展開し、長州藩兵を翻弄しました。藩の1万有余の人々が、香春へ疎開していきました。和睦条件は、世子人質や領地割譲、島村の首級など、過酷な五項目でしたが、島村志津摩は、領地放棄という大胆な条件で止戦交渉にあたり、翌慶応3(1867)年、幼君を人質に出すことなく、領土の割譲などもない条件で止戦協定が結ばれました。香春光願寺に「思永館」(後の「育徳館」)を再建し、領内12カ所に支館を設置し、産業振興策として、弓削田(ゆげた)や金田(かなだ)の炭坑を開発し藩の再興に尽力しました。
 香春藩から豊津(とよつ)藩への藩都移行を推し進めながら明治2(1869)年に官を辞し、明治4(1871)年廃藩置県で家禄を失った旧藩士救済のために私財を投じて元藩直営炭坑(西弓削田炭坑)を経営しました。経営的には失敗し、44歳で病没しています。
 

小倉戦争絵巻(部分)
個人蔵:八代市立博物館寄託

 
参考文献
白石壽(2001)『小倉藩家老 島村志津摩』海鳥社.
香春町史編纂委員会(2001)『香春町史 上巻』香春町.
 
地図
鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.