明治維新以降の鉱山解放令により、明治初期に筑豊区域では鉱区面積1,000坪以下の小炭坑が600坑以上も乱立し、乱掘、乱売が行われていました。行政指導も坑業者同士の協同も自主規制も難しいため、福岡県の指導により炭坑業者は業者の組合をつくり協同することをすすめました。明治18(1885)年4月に石炭鉱業人組合布達が出され、各郡坑業組合が成立しましたが、
筑豊の5郡がそれぞれに組合を設立したものでした。この連合体の名称は「筑前国遠賀郡鞍手郡嘉麻郡穂波郡豊前国田川五郡組合申合規約」という名称でした。これでは将来5郡の利害衝突、意見食い違いも起こりかねません。そのため、11月には坑業組合を統合し、「筑前国豊前国石炭坑業組合」が創立され、筑豊石炭坑業組合と称しました。筑前と豊前の頭文字を取り、筑豊という名称が初めて登場しました。初代の組合総長には、福岡県職員で組合設立に奔走した石野寛平が就任しました。明治21(1888)年、田川郡の大部分が海軍予備炭田として封鎖されました。このため、炭鉱経営を阻まれた筑豊の炭坑主らが反発し、筑豊石炭坑業組合の総長とともに上京して予備炭田の開放を政府に陳情しました。この運動の過程で
田川採炭会社が明治22(1889)年、
後藤寺(ごとうじ)に設立されました。明治26(1893)年4月には筑豊石炭鉱業組合が発足しています。この中で
稲垣徹之進は第3代総長に就任しました。明治27(1894)年、
安達仁造が第4代総長に選ばれました。
一方、石炭運搬を担っていた
川艜(かわひらた)は、筑豊五郡川艜同業組合を明治18(1885)年に若松の坑業組合に隣接して事務所が設立されていましたが、明治27(1894)年に鉱業組合は艜業組合に事務所を貸与し、同組合の事務を兼務するようになりました。
筑豊石炭鉱業組合本事務所 出典:『筑豊石炭鉱業要覧』 |
組合直方会議所 提供:九州歴史博物館 |
参考文献
西日本文化協会(1987)『福岡県史近代史料編(11)筑豊石炭鉱業組合1』福岡県.
西日本文化協会(1989)『福岡県史近代史料編(15)筑豊石炭鉱業組合2』福岡県.
筑豊石炭礦業史年表編纂委員会(1973)『筑豊石炭礦業史年表』田川郷土研究会,西日本文化協会.
永末十四雄(1973)『筑豊石炭の地域史』日本放送協会.
吉見實 (1935)『筑豊石炭鑛業會五十年史』筑豊石炭鑛業會.
地図
『
筑豊煤田地圖(筑豊炭礦誌)』明治26(1893)年製図 明治31(1898)年発行 中村近古堂.
『
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
『
筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.
『
九鐵沿線炭鑛位置略圖(最新筑豊石炭鑛業要覧)』大正6(1917)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.