2-3-3 安達仁造

 安達仁造(1853-1932)は能義(のぎ)郡母里(もり)(現安来(やすぎ)市)の松江藩医の家に生まれました。明治3(1870)~4(1871)年頃勉学のために上京し洋行を企てましたが失敗し、北海道開拓使外人教師館のボーイとなりました。明治6(1873)年北海道開拓使に雇われたアメリカ人地質学者であるベンジャミン・スミス・ライマンの北海道地質調査に書記として参加し6年間仕えました。ライマンの帰国後は工部省鉱山局に入り、秋田県北秋田市にあった官営の阿仁(あに)鉱山に勤めました。明治15(1882)年、アメリカとイギリスの炭坑視察をめざすとライマンを頼って渡米しました。両国の炭坑を視察して、明治22(1889)年に帰国すると、古河市兵衛に誘われましたが会社は金属鉱山だけだったので断りました。その頃、日本郵船が船舶の燃料を確保のため福岡県鞍手郡の勝野炭坑(後の第二目尾(しゃかのお)炭鉱)を経営することになり、安達仁造はその経営を任されました。
 明治中期、国や県は産業奨励策の下に筑豊規模の石炭鉱業組合の結成と採掘、流通の進展を図っています。この時期に活躍したのが、各地の炭坑の経営陣となった財界・政界・地域の資本家たちと、実質的な経営を請け負う専門的な知識や技術を体得した実務者たちが炭鉱開発を推進していきました。ライマンの弟子たちは、筑豊炭田の近代化黎明期に嶋田純一稲垣徹之進・安達仁造・山際永吾・杉浦譲三などが活躍しています。明治27(1894)年、稲垣徹之進総長に代わって安達仁造が第4代筑豊石炭鉱業組合総長に選ばれました。以後10年間総長に在任し、筑豊の石炭鉱業の発展に寄与しました。
 

安達仁造
出典:『筑豊炭礦誌』

 
参考文献
今津健治(1979)「B・S・ライマンの弟子たち」『エネルギー史研究』10号,西日本文化協会.
安達仁蔵(1926)「思い出の人」『石炭時報第1巻 第9号』石炭鉱業連合会
副島恭子(1999)「ライマン雑記(16)」『地質ニュース』1999年1月号,実業広報社.
副島恭子(1996)「ライマン雑記(17)」『地質ニュース』1999年9月号,実業広報社.
副島恭子(2001)「ライマン雑記(19)」『地質ニュース』2001年9月号,実業広報社.
西日本文化協会(1987)『福岡県史近代史料編(11)筑豊石炭鉱業組合1』福岡県.
高野江基太郎(1898)『筑豊炭礦誌』中村近古堂.
筑豊石炭礦業史年表編纂委員会(1973)『筑豊石炭礦業史年表』田川郷土研究会,西日本文化協会.
 
地図
鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.
筑豊煤田地圖(筑豊炭礦誌)』明治26(1893)年製図 明治31(1898)年発行 中村近古堂.
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.