稲垣徹之進(1852-1902)は三重県志摩国鳥羽(現鳥羽市)で生まれました。明治3年頃、同郷の藩士近藤真琴を頼り攻玉社に入っています。その後、明治5(1872)年に開拓使仮学校に入学し、翌年北海道開拓使雇われ外北海道開拓使に雇われたアメリカ人地質学者であるベンジャミン・スミス・
ライマンの北海道地質調査隊に仮学校同級生らと参加しました。以後ライマンが開拓使ご用を辞めるまで7年間日本各地の地質調査、炭田調査に従たがい、地質学や測量技術とともに各地の炭田事情などを習得しました。ライマンの弟子たちは、筑豊炭田の近代化黎明期に
嶋田純一・稲垣徹之進・
安達仁造・山際永吾・杉浦譲三・賀田貞一などが活躍しています。工部省三等技手嶋田純一らの
鉱山借区図の作成にも力を発揮したことでしょう。明治13(1880)年、工部省に入り現在の秋田県湯沢市にあった院内銀山勤務を命じられています。明治15(1882)年、三池鉱山局に転勤し、三池炭田地質図を作成しています。後に、この地図が三井の團琢磨に激賞されました。明治21(1888)年工部省を辞めると野依範次等がやっていた両潤社経営の大辻炭坑に入社し技師長を務めました。大辻炭坑の代表として筑豊石炭坑業組合の常議員を務めていましたが、明治26(1893)年4月、
筑豊石炭鉱業組合が発足しました。この中で第3代総長に就任し、
筑豊の石炭鉱業の発展に尽力しました。明治29(1896)年に大辻炭坑を辞め、佐賀の福母炭坑を経営しました。明治31(1898)年、安川敬一郎に見込まれて(株)坑会社の専務に就任、大城(だいじょう)炭坑(明治1坑)の業務を託されました。明治35(1902)年2月、腎臓病のため福岡で55歳でなくなりました。
稲垣徹之進 出典:『筑豊炭礦誌』 |
参考文献
今津健治(1979)「B・S・ライマンの弟子たち」『エネルギー史研究』10号,西日本文化協会.
副見恭子(1999)「ライマン雑記(16)」『地質ニュース』1999年1月号、実業広報社.
副島恭子(1999)「ライマン雑記(17)」『地質ニュース』1999年9月号,実業広報社.
副島恭子(2001)「ライマン雑記(19)」『地質ニュース』2001年9月号,実業広報社.
清宮一郎(1952)『松本健次郎懐旧談』鱒書房.
西日本文化協会(1987)『福岡県史近代史料編(11)筑豊石炭鉱業組合1』福岡県.
高野江基太郎(1898)『筑豊炭礦誌』中村近古堂.
筑豊石炭礦業史年表編纂委員会(1973)『筑豊石炭礦業史年表』田川郷土研究会,西日本文化協会.
地図
『
鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.
『
筑豊煤田地圖(筑豊炭礦誌)』明治26(1893)年製図 明治31(1898)年発行 中村近古堂.
『
筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.
『
九鐵沿線炭鑛位置略圖(最新筑豊石炭鑛業要覧)』大正6(1917)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.