3-1-3 田川採炭会社

 明治21(1888)年、田川郡の大部分が海軍予備炭田として封鎖されました。このため、炭鉱経営を阻まれた筑豊の炭坑主らが反発し、筑豊石炭坑業組合(後の筑豊石炭鉱業組合)の総長とともに上京して予備炭田の開放を政府に陳情しました。この運動の過程で田川に目を付けていた炭鉱業者がまとめられ、東京・関西・田川の資本で構成する田川採炭会社が明治22(1889)年12月に、後藤寺(ごとうじ)に設立されました。相談役として名を連ねていた人物の中には渋沢栄一もいました。
 明治24(1891)年には念願の海軍予備炭田が解除され、また筑豊興業鉄道(若松-直方(のおがた))が開通したことにより、筑豊炭田は次のステージを迎えます。田川採炭会社も軌道にのり、1日の出炭は約300tに達しました。しかし、河口から遠く、石炭輸送に不利であった田川地域では、車力や馬を使って石炭を運び、宮床(みやとこ)の船場からは船を利用する水運に頼っていました。そこで田川採炭会社はハンディ克服のため、行橋(ゆくはし)経由の豊州鉄道との合併を決議しましたが、鉄道が採炭を営むと法に抵触するため、炭坑名を「田川採炭坑」と改称しました。田川市大浦の会社町は、田川採炭会社の事務所があったことによる地名です。その後、田川採炭坑は豊州鉄道と採炭事業を分離して「田川採炭組」となりました。明治29(1896)年に後藤寺駅(現田川後藤寺駅)が開通すると水運から鉄道へ石炭輸送は大きく変わりました。結局は明治33(1900)年に三井へ譲渡し、三井田川が創業することになりました。当初は現在の平松郵便局がある場所に事務所を構えていました。
 

三井田川の旧本部事務所
提供:個人臓

選定坑区
出典:『三井田川鉱業所伊田坑跡』

 
参考文献
筑豊石炭鉱業会(1935)『筑豊石炭鉱業会五十年史』筑豊石炭鉱業会.
筑豊石炭礦業史年表編纂委員会(1973)『筑豊石炭礦業史年表』田川郷土研究会,西日本文化協会.
田川市史編纂委員会(1979)『田川市史 中巻』田川市.
三井文庫(1980)『三井事業史 本篇第2巻』大日本印刷.
田川市教育委員会(2016)『三井田川鉱業所伊田坑跡-福岡県田川市所在炭鉱遺跡発掘調査報告』.
 
地図
筑豊煤田地圖(筑豊炭礦誌)』明治26(1893)年製図 明治31(1898)年発行 中村近古堂.
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.
九鐵沿線炭鑛位置略圖(最新筑豊石炭鑛業要覧)』大正6(1917)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.