3-1-4 三井田川病院 -三井田川鉱業所病院-

 炭鉱では、坑内災害による負傷や、劣悪な衛生環境などのため、医療施設は福利厚生として最重要視されました。明治33(1900)年、田川採炭組(元田川採炭会社)を買収した三井田川は、地元の医師を嘱託としていましたが、明治35(1902)年、加治三益ら3名に慰労金を支払うとともに、嘱託医契約を解き、直営の三井田川炭鉱医局(八尺医局)を後藤寺(ごとうじ)の平松に開設したほか、大藪・伊田にも出張所を設置しました。明治36(1903)年に八尺医局が手狭になると、平松の朝日ヶ丘(旧北川耳鼻科裏)に新築しました。
 さらに、昭和11(1936)年に三井田川病院として、三井寺番田池の近く現田川市立幼稚園の場所に三井田川病院を新設移転し、最盛期には医師35名、看護師112名、薬剤師7名、病床333床を擁しており、炭鉱事故に対しても先導的な役割を果たしていきました。この病院での診察は原則として三井関係者だけで、医療費は本人も家族も無料でした。昭和23(1948)年には戦時中の捕虜収容所(白人)を改良し、日本の炭鉱としては唯一の附属結核療養所光生(こうせい)園を併設しました。
 三井田川病院は長年にわたり田川郡内の医療をけん引しましたが、昭和39(1964)年の三井田川鉱業所の閉山にともない62年の輝かしい歴史の幕を閉じました。
 

三井田川病院全景(昭和10年代頃)
提供:個人蔵
(現市民球場方向から見た三井田川病院)

三井田川病院(昭和30年代頃)
提供:個人蔵

三井田川病院内部
提供:個人蔵
※当時最新医療器具等を備える

 
参考文献
田川医師会史編集委員会(1988)『田川医師会史』田川医師会.
町田定明(1964)『ありし日の三井田川炭鉱1964』三井鉱山田川事務所.
田川市史編纂委員会(1979)『田川市史 中巻』田川市.
 
地図
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.
『伊田町全圖』大正13(1924)年 伊田町役場.