3-2-2 技術者たち

 国内最大の隆盛を誇った筑豊炭田では、最高水準の炭鉱技術が培われてきました。例えば、日本三大竪坑と称された三井田川の伊田竪坑では、第一、二煙突のレンガは、フランス積み(正式にはフランドル積み)やイギリス積みが取り入れられています。竪坑櫓はイギリスの様式がみられ、海外の技術が積極的に取り入れられていきました。一方、石坂トンネルではドイツの技術の影響を見ることができます。
 明治の近代化の中で多くの技術者が育っていきました。伊田竪坑では、同系の三井三池万田坑の経験者であった小林寛(こばやしゆたか)と田邊儀助が、欧州で竪坑を視察した佐伯芳馬とともに、それまでの三池を凌ぐ大竪坑の開削に挑戦します。特に小林は、伊田竪坑開削後に炭鉱事故のうち大きな問題であった炭塵爆発予防の研究に取り組み、彼が確立した岩粉を散布する予防法は、後年法規制にも組み込まれました。大正後期に小林は台湾、田邊は北海道の釧路に赴任しており、炭鉱技術が筑豊を経由して、台湾や北海道に伝わっていきました。
 日本では大学採鉱学科や鉱山学校等で、炭鉱技術者を養成していました。炭鉱就職後は多くの現場を経験し、一人前の技術者へと成長していきます。彼らは現場の仕事のみならず、技術論文や学会発表もこなしました。
 三井田川が設立した三井田川鉱業学校は現田川市立中央中学校の場所にありましたが、昭和36(1961)年に閉校になりました。大正8(1919)年に開校した筑豊鉱山学校とともに多くの中堅技術者を養成していきました。こうした日々のたゆまぬ努力が、保安と生産の両立につながっていきました。
 

三井田川第三坑の二基の竪坑櫓
提供:個人蔵

 
参考文献
筑豊石炭礦業史年表編纂委員会(1973)『筑豊石炭礦業史年表』田川郷土研究会,西日本文化協会.
田川市史編纂委員会(1979)『田川市史 中巻』田川市.
田川市教育委員会(2016)『三井田川鉱業所伊田坑跡-福岡県田川市所在炭鉱遺跡発掘調査報告』.
 
地図
筑豊煤田地圖(筑豊炭礦誌)』明治26(1893)年製図 明治31(1898)年発行 中村近古堂.
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.
九鐵沿線炭鑛位置略圖(最新筑豊石炭鑛業要覧)』大正6(1917)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.
筑豊炭田地質圖』昭和4(1929)年 筑豊石炭鑛業組合.
最盛期の筑豊炭田炭坑分布図 昭和15年頃(筑豊石炭礦業史年表)』昭和48(1973)年 田川郷土研究会.