明治8(1875)年田川郡糸田村で、筑豊で初めて蒸気機関を使った排水ポンプの実験を行いました。蒸気の気圧が上がらず、ポンプが作動しなかったため排水は成功しませんでしたが、巻き上げ機の動力に使うことには成功したようです。その後、明治28(1895)年豊州炭鉱(川崎村池尻)、小松炭坑(弓削田(ゆげた)村)を経営しています。特に弓削田村は明治20年代に蔵内(くらうち)次郎作・久良知(くらち)寅次郎・片山逸太など石炭鉱業史に名を列ねる人々が炭鉱開発に関わった地域です。しかし明治28(1895)年、小松炭坑で大規模な水没事故をおこし、復旧後、久良知寅次郎に譲渡しました。また明治31(1895)年豊州炭鉱の社長も退任しました。逸太は炭鉱経営から引退し、引退前に建てた料亭「群芳閣(ぐんぽうかく)」で大正6(1917)年80歳で亡くなりました。まさに炭鉱機械化の先駆者でした。
片山逸太の蒸気ポンプによる機械排水は、貝島太助、帆足義方、麻生太吉らによって続けられましたが、失敗続きでした。明治13(1880)年12月8日、ついに筑豊ではじめての杉山徳三郎のスペシャルポンプによる機械排水が目尾(しゃかのお)炭坑で成功しました。明治30年代になると、ウォシントンポンプが筑豊各炭坑(新入・赤池・忠隈・明治・豊国)で使用されるようになり、坑内排水問題は一応解決しました。こうした坑内排水問題解決の先鞭を付けたのが片山逸太と云えるでしょう。
片山逸太 提供:畑中敬子 |
昭和初期の群芳閣 提供:畑中敬子 |
参考文献
祖父江陽一(2014)「炭坑・機械化の先駆者・片山逸太」『エネルギー史研究』29号.
筑豊石炭礦業史年表編纂委員会(1973)『筑豊石炭礦業史年表』田川郷土研究会,西日本文化協会.
地図
『鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.
『筑豊煤田地圖(筑豊炭礦誌)』明治26(1893)年製図 明治31(1898)年発行 中村近古堂.
『小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
『筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.