3-2-7 蔵内次郎作 -蔵内次郎作と保房-

 蔵内(くらうち)次郎作は、弘化4(1847)年、築城郡上深野村(現築上町)で庄屋の次男として生まれました。次郎作の同族である久良知重敏、政市親子と養子の保房を頼って田川郡後藤寺(ごとうじ)に来ると、すでに重敏たちが始めていた「崩レ」の炭坑に加わりました。明治18(1885)年には蔵内次郎作と久良知政市(政一)の共同で田川郡弓削田村に峰地炭坑を開坑し蒸気機関を据え付けました。弓削田村は明治20年代に蔵内次郎作・久良知(くらち)寅次郎片山逸太(かたやまいつた)など石炭鉱業史に名を列ねる人々が炭鉱開発に関わった地域です。その後、彼らは明治34(1901)年の第二小松坑(現香春町)をはじめ、峰地炭坑(現添田町)、大峰炭坑(現大任町・川崎町)、足立炭坑(現北九州市小倉北区),京殿(きょうでん)炭坑(現北九州市若松区)等を経営し、大正5(1916)年、蔵内鉱業(株)を設立し保房が社長に就任しました。大正8(1919)年には全国6位の出炭高を上げました。
 次郎作は明治41(1908)年から5期にわたり衆議院議員を務めるとともに鉄道の敷設にも尽力し、大正4(1915)年には小倉鉄道(東小倉から梅田を経由して上添田間)の敷設に貢献しました。現在、城野-石原町-採銅所-香春間が日田彦山線として残っています。
 また保房は旧制田川中学校・築上中学校の創設、宇島鉄道などの公共事業に力を注ぎ、長男次郎兵衛は高崎山(大分市)に万寿寺別院のため土地7万坪を寄進するなど地域に貢献しました。田川市の鎮西公園内に蔵内次郎作像がありましたが、戦前の金属供出令により像は失われ、当時の台座には現在、忠霊塔が立っています。福岡県立田川高等学校の正門横には蔵内保房の銅像があります。
 保房は大正10(1921)年に59歳で、さらに次郎作が大正12(1923)年に亡くなり、その後は長男と次男が中心となり会社を経営しました。そして、昭和14(1939)年に峰地・大峰炭鉱を古河合名会社へ譲渡した後、大分県で尾平鉱山(鉛・すず・銅)、長崎県で大串鉱山(金)を経営しました。
 

撮影:白石益雄

蔵内次郎作像
出典:『わが校の50年』

蔵内保房
出典:『わが校の50年』

 
参考文献
校史編集委員 瓜生敏一(1967)『わが校の50年』福岡県立田川高等学校.
筑豊石炭礦業史年表編纂委員会(1973)『筑豊石炭礦業史年表』田川郷土研究会,西日本文化協会.
 
地図
鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.
筑豊煤田地圖(筑豊炭礦誌)』明治26(1893)年製図 明治31(1898)年発行 中村近古堂.
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.