次郎作は明治41(1908)年から5期にわたり衆議院議員を務めるとともに鉄道の敷設にも尽力し、大正4(1915)年には小倉鉄道(東小倉から梅田を経由して上添田間)の敷設に貢献しました。現在、城野-石原町-採銅所-香春間が日田彦山線として残っています。
また保房は旧制田川中学校・築上中学校の創設、宇島鉄道などの公共事業に力を注ぎ、長男次郎兵衛は高崎山(大分市)に万寿寺別院のため土地7万坪を寄進するなど地域に貢献しました。田川市の鎮西公園内に蔵内次郎作像がありましたが、戦前の金属供出令により像は失われ、当時の台座には現在、忠霊塔が立っています。福岡県立田川高等学校の正門横には蔵内保房の銅像があります。
保房は大正10(1921)年に59歳で、さらに次郎作が大正12(1923)年に亡くなり、その後は長男と次男が中心となり会社を経営しました。そして、昭和14(1939)年に峰地・大峰炭鉱を古河合名会社へ譲渡した後、大分県で尾平鉱山(鉛・すず・銅)、長崎県で大串鉱山(金)を経営しました。
撮影:白石益雄 |
蔵内次郎作像 出典:『わが校の50年』 |
蔵内保房 出典:『わが校の50年』 |
参考文献
校史編集委員 瓜生敏一(1967)『わが校の50年』福岡県立田川高等学校.
筑豊石炭礦業史年表編纂委員会(1973)『筑豊石炭礦業史年表』田川郷土研究会,西日本文化協会.
地図
『鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.
『筑豊煤田地圖(筑豊炭礦誌)』明治26(1893)年製図 明治31(1898)年発行 中村近古堂.
『小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
『筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.