3-3 田川の文化

 石炭産業の盛衰とともに地域の住民生活や文化に及ぼした影響は大きなものがありました。明治33(1900)年に三井田川後藤寺(ごとうじ)に進出し、百円坂倶楽部という迎賓施設ができ、伊田に伊田竪坑ができると「中央の文化」を背負った人々が流入し、一寒村であった田川地域の人々に大きな影響を与えました。
 森鴎外が田川を訪れたのは、倶楽部完成の翌年で、そこは中央からの文化が流入する場所となりました。与謝野晶子夫妻が伊田竪坑の開削担当者である小林寛(こばやしゆたか)と共に、三井田川伊田坑の竪坑に入坑した折りには「地の底にわれを誘ひて入るさまに悲しき山の秋の水音」と詠っています。
 倶楽部には明治・大正・昭和に渡って多くの芸術家が訪れています。画家では炭坑漫画を描いた斉藤五百枝,濱哲雄・小早川清・小林武夫などです。また、バイオリニストでは諏訪根自子・巌本真理などの芸術家が訪れました。
 三井田川の文化活動への基金は「厚生福利助成金」後に「文化資金」といい、当時としては巨額で生産奨励金の意味をもっていました。予算執行は、経営者と職員組合、労働組合の三者協議会で行われました。田川文化連盟の結成は県内でも早く昭和22(1947)年です。
 田川郷土研究会の永末十四雄は、水彩絵具で山本作兵衛を導き、炭坑記録画もみごとな色彩を得ました。橋本英吉はプロレタリア文学者で『若き坑夫の像』などを発表し、田川の炭坑の様子を描いています。昭和35(1960)年当時、25館の映画館が田川地域にありました。映画「龍虎伝」では川渡り神幸祭が描かれましたし、映画「青春の門」では田川の炭坑と人々が描かれました。このように、炭鉱産業という基盤の中で行われた様々な人々との出会いと交流が今の田川の文化を育んできたといえるでしょう。
 

橋本英吉文学碑
撮影:片岡覺

川渡り神幸祭
提供:風治八幡宮

 
参考文献
瓜生敏一(1982)『田川の文学とその人びと』田川郷土研究会.
 
地図
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
九鐵沿線炭鑛位置略圖(最新筑豊石炭鑛業要覧)』大正6(1917)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.
『伊田町全圖』大正13(1924)年 伊田町役場.