3-3-3 与謝野晶子

 「その村の人々の涙をことごとくあつめしを…地下千二百尺の水の音の今もかたへにいたし候やうときどきおもはれ申し候。…」これは、「みだれ髪」や「君死にたまふことなかれ」で知られる、歌人・与謝野晶子が、伊田竪坑へ入坑した際の礼状の一節です。
 伊田竪坑の開削担当者であった小林寛(こばやしゆたか)は、洋行の際に同船した与謝野寛(鉄幹)と知り合いました。帰国後の大正6(1917)年5月28日より、与謝野寛・晶子夫妻は西日本へ旅行に出かけますが、その旅路で福岡に立ち寄った際に小林寛は与謝野夫妻を田川へ招き入れました。与謝野夫妻は小林宅に一泊し、翌6月21日に小林夫妻と伊田にあった三井田川鉱業所の伊田竪坑へ入坑しており、合羽を着用して竪坑へ下がる写真が残されています。
第一、第二煙突竪坑櫓も見たことでしょう。礼状の「地下千二百尺」とは伊田竪坑のことです。伊田竪坑周辺になお残る寒村の面影と高台に屹立する近代的な櫓の対照を、与謝野晶子の感性が鮮やかにとらえています。これら中央の文化人が三井田川百円坂倶楽部や本部事務所横の食堂を訪れ、田川の文化が育っていく窓口となりました。
 

伊田坑の竪坑に入る与謝野晶子・鉄幹夫妻
出典:『田川郷土研究会創立50周年記念号=炭鉱の文化=』

 
参考文献
田川市史編纂委員会(1979)『田川市史 中巻』田川市.
瓜生敏一(1982)『田川の文学とその人びと』田川郷土研究会.
田川市教育委員会(2016)『三井田川鉱業所伊田坑跡-福岡県田川市所在炭鉱遺跡発掘調査報告』.
田川郷土研究会(2006)『田川郷土研究会 創立50周年記念号=炭鉱の文化=』田川郷土研究会
 
地図
筑豊煤田地圖(筑豊炭礦誌)』明治26(1893)年製図 明治31(1898)年発行 中村近古堂.
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.
九鐵沿線炭鑛位置略圖(最新筑豊石炭鑛業要覧)』大正6(1917)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.
鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.  各地点を見る→ 伊田