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筑豊石炭礦業史年表
筑豊石炭礦業史年表編纂委員会編
田川郷土研究会
田川市長 全国鉱業市町村連合会会長 坂田九十百
 
 昭和37年の第一次石炭答申より五次にわたる石炭政策の改訂によって,わが国の石炭鉱業はすっかり昔日の俤を失なってしまった.特に筑豊炭田は早くから炭鉱のスクラップ化が集中し,本年春には唯一のビルド鉱も閉山しいよいよ長い歴史の終局的段階を迎えてしまった.嘗てはマス・コミが一斉に報導の焦点を向け,国政の緊急課題となった筑豊への国民的関心も薄らいでいる.しかしたとえ筑豊から炭鉱が姿を消してしまっても,わが国の近代・現代史上の意義を消すことはできない.
 筑豊炭田は明治中期以後長い間わが国の石炭産出高の半ばを占めた最大の産炭地であり,国民経済への貢献は測りしれぬものがあった.富国強兵の国策に沿って産業革命を遂行し,資本主義の急速な育成を計るなかで,筑豊はエネルギー需要の増大に対応して採掘規模を拡大し,資本の成長を促進する基盤,またわが国近代産業の母胎となった.資源に乏しいわが国にとってエネルギーの自給自足が資本主義形成に不可欠の条件であったことを思えば,筑豊の石炭は近代国家建設の原動力そのものであった.また第一次世界大戦を契機とする産業界の目ざましい膨張,太平洋戦争の遂行,戦後経済の復興など国運の帰趨に関する非常事態を迎えるたびに,筑豊は常に生産能力の極限を発揮するよう要請されてきた.
 いいかえれば戦争・事変のたびに筑豊は着目され生産の増大が期待されたが,平常時には世間の華やかな動向の陰にかくれしまう地域であった.国民の一般的な筑豊に対する理解は普通の地理的知識を出ないだげでなく,一種の先入観にとらわれる人も甚だ多かったように思われる.また合理化問題を契機として精細に報導されるようになっても,一般に筑豊は大資本によって開発されてその恩恵を蒙り,戦時・戦後はとくに優遇措置をうけてきたという見方は〓固としたものがあった.
 しかし筑豊の諸問題の切実さは産業史また産業政策の視点だげでは理解されぬものである.本来石炭鉱業は農業と同じように風土性の濃厚な産業であり,各地の炭田はそれぞれの地域の歴史と社会と密着し同一視できぬ個性的な顔をもっている.とりわけ筑豊は北海道のような開拓地でもなく,宇部・三池のように海岸に面した地域でもなく,北九州の内陸部に奥深く展開し,古代にいち早く大陸からの文明が根を下ろし,近世においては豊沃な農業地帯であった.筑豊の石炭鉱業はこの歴史と土壌のなかで育まれ成長してきたのである.明治維新を迎えた段階でも産業として既に100年以上にもおよぶ沿革をもち,維新後は土着の坑主によって産業革命が開幕された.先覚者によって開拓された基盤の上に,地元資本と進出してきた中央資本の烈しい競合によって筑豊は大炭田として成立したのである.また無名の民の創意工夫,活気が伴わなかったら石炭鉱業の急速な近代化は至難なものとなったことであろう.筑豊炭田開拓の栄誉は草の根より出た坑主やその創業を助けた人々に帰せられるべきであり,明治中期まで石炭鉱業はまだ郷土産業の範疇に出ていなかった.しかし巨大な資本力を背景とする中央資本の炭鉱が漸次地場資本を圧倒すると,長い間地域と均衡と調和を保ってきた石炭鉱業も地元の人の制御が及ばぬものとなった.大炭鉱は各地から大きな労働力を吸収し,荒蕪地に大集落を造り,それをとりまく市街地を形成した.農村地帯から近代的な鉱業地帯に烈しく変貌する中で,農地や水路または家屋も鉱害によって浸蝕された.自然の秩序は急速にそして広範囲に破壊され,農業の衰微を招いた.炭鉱の採掘規模は巨大となったが,資材を供給する工業の発達は停頓し,内部的に独自の消費機構を整備したため商業の発展も抑制されてしまった.このため著るしく石炭生産に偏重した地域社会を構成し,例えば最盛期の本市では市民の約60%が直接炭鉱で働く人とその家族で占められ,炭鉱と関わりのない生活を営むのは例外的といってよかった.長い間炭鉱と市町村,住民は相互に依存し,帰趨を共にするより他のない状況におかれたのである.そして石炭生産力と地域の経済力は均衡せず,国民経済への貢献に比べると住民の生活は恵まれることに乏しかった.多面的な経済発展の方向を閉ざされ地域の活力をすべて石炭生産に結集し,筑豊はただわが国経済の土台となることに甘んじてきたのである.戦後の混迷をきり抜け漸やく安定した繁栄を目ざすべきときに至って合理化の直撃をうけ,地域社会の興廃に関わる問題に発展した.本来スクラップ・アンド・ビルドによって石炭鉱業を再編成し安定に導くべき石炭政策は,筑豊にとってはスクラップ・アンド・スクラップ以外の何ものでもなかった.
 石炭とともに生きてきた時代は終りを告げたが,この未曽有の転換期に際会し私共はただ過去を懐しみ現状を嘆くだげでなく,改めて筑豊にとって石炭鉱業とは何であったかと考えることに新しい都市づくりの精神的拠り所を求めていかねばならない.しかし筑豊は石炭鉱業を誇りとし一部にはすぐれた記録をみながらも,全体として歴史的知識と研究は不十分さを免れるものでなかった.本市に基盤をおく田川郷土研究会はこのことを自覚し,石炭鉱業合理化が激化する中で炭鉱資料の収集・記録の作成に従事したが,その集大成として昭和43年いらい筑豊石炭鉱業の歴史過程を縦覧するため本年表の編纂に着手された.いらい九州大学秀村選三教授等学界研究者の参加を得て幅広い協力体制をとりつつ複雑な協同作業を経て本書刊行の運びに至った.本書は筑豊石炭鉱業についての最初の総合的な研究成果であるにとどまらず,風土とここに生きてきた人々への純粋な愛情の結晶というべきものである.編纂にあたってこられた方々の労苦に敬意を表し,本書の刊行に至ったことを心から喜ぶとともに,依然今日的な問題の意義を失なっていない筑豊を再認識される機縁となり,完全な自立再建のため一層の理解と支援を切望するものである.