Ⅱ 編纂過程と編纂方針

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 1968(昭和43)年3月,田川郷土研究会による『田川地方・筑豊炭田近代総合年表』編纂の第1回会合が英彦山において行なわれ,秀村・田中も参加した.当初の計画では主表を田川市郡の地方史,副表を筑豊炭田の石炭産業史とする2欄形式の年表で,A5版300頁程度,編纂期間2年,1970(昭和45)年に刊行の予定で熱気に溢れた作業が続けられた.
 しかし,その後次第に石炭の歴史の大きさ・広さ・深さに気付き,ことにはじめの予想をはるかに上廻る厖大な資料の存在を知るに至り,年表の主題を筑豊炭田にしぼり,石炭をめぐる総合年表を作成することとして年表の名称も『筑豊炭田総合年表』とするに至った.このように筑豊炭田の石炭年表に主眼を置くようになってからは,全国乃至国際的な石炭事情のデータが重要であり,これなくしては筑豊自体も充分に理解出来ないことを悟り,「内外炭礦関係事項」欄を設け,筑豊の石炭史にも「生産・流通・鉱害」と「技術・労働・労使関係」の2欄を宛て,地誌も「田川・筑豊・県下」と田川を中心としつつも,より広い地域に拡げられるに至った.編纂の主体も田川郷土研究会を母体として新しく「筑豊炭田総合年表編纂委員会」を組織し,この前後から田川市郡以外の人々,大学・資料室関係の専門研究者を加え,委員一同新しい資料を求めてカードの採録に努め,データは質量ともに上昇していった.
 すでに石炭礦業史の研究に関しては,遠藤正男氏・隅谷三喜男氏らのすぐれた研究をはじめ,多数の文献はあったが,筑豊石炭礦業史の全般にわたっていえば,その研究は決して進んでいるとはいえなかった.また資料の存在状況も充分知られていなかったし,未公開の資料もあった.もちろん,既知の資料もその数は多かったが,今迄一面的に利用されたことはあっても,全面的に分析されたことはなかったのである.かかる状態の中で,年表編纂のため全面的に文献にあたり,また資料の採訪・調査・研究を進めるにつれて,その文献・資料は益々厖大なものであることを知った.既知の資料以外に筑豊各地・福岡・長崎・肥前各地・東京・関西・瀬戸内等にも多く存在していることに気付いたのである.かくして古文書・古記録,中央の石炭資料,明治・大正期の定期刊行物,新聞等々……従来の石炭史研究にはほとんど利用されていない資料から多数のデータを加えることが出来た.このため期限を小刻みに幾度か延期しつつ,常に追われる気持で,ただデータの正確と豊富さとを期したのであった.
 この間,田川の委員たちによりカードの整理,資料の補足,原稿の執筆は進められ,秀村が天保~明治前期,田中が明治中期~大正期の校閲にあたっているなかで,福岡・東京・京都・北九州・多久の委員たちにより資料の発掘・調査,カードの採録は依然として続けられた.既知の資料でないために,それは多かれ少なかれ研究を伴うものであった.したがって原稿に対して補充・訂正も相つぎ,幾度かの改稿を余儀なくした.
 出版の予定は最初昭和45年であったが,対象の大きさから延期をかさねた.しかし46年には,田川では諸般の事情から出版を迫られる状況に置かれていた.にもかかわらず,次々と新資料の存在を知り,データの補充,原稿の補正を続けねばならなかった.そのため学問的につめの足りないままの刊行にはどうしても踏みきれず,しかもそれは心ならずも田川の委員に迷感をかけるので,われわれにとって深刻なジレンマであった.かくして迂余曲折はあったが,今後の筑豊石炭礦業史の研究と地域住民の歴史認識のため,「叩き台」の役割を果す年表作成の見透しさえつけば,一応ピリオドを打つべきであろうと決心するようになり,また筑豊石炭史に関して全般の事象を網羅する総合年表はわれわれの組織・能力・編纂期限ではとうてい無理であることも悟って,産業史年表に集中することに努め,名称も『筑豊石炭礦業史年表』とし,組織会名も「筑豊石炭礦業史年表編纂委員会」と改めたのであった.既にこれ以前から4欄の枠組も現在見るごとき「全国石炭関係」・「生産・流通」・「企業・労働・災害」・「地域社会」に改めていたのである.
 かくして内容の充実のため延期を重ねて出版の規模も当初の規模をはるかに上廻るようになったが,田川郷土研究会と西日本文化協会で分担して発行されるようになり,1971(昭和46)年秋には原稿も一応印刷所に廻された.校正中も補充・訂正に努め,各時代とも常識では考えられないほどの校正--それは校正というより,ほとんど改稿に近いことが多かった--を続けて1973(昭和48)年夏に及んだのである.
 思えば民間・学界の各委員とも,損得抜きでただ年表を良くしたいという一念で編纂にあたってきた.ことに本年表の編纂には,広い地域,多面的な分野の資料調査,古文書の解読,カードの採録・整理,原稿作成,校閲,原資料との照合,校正等を必要とし,あるいは全国的・全筑豊的視野と共に地域の感覚,実務の知識・経験等々を不可欠とするだけに,必然的に民間・学界の協力体制をとらざるを得なかった.そして各委員それぞれの長所を生かして,おのずから役割の分担をなし,より良きものの達成に力を尽したのであった.各委員はおそらく,この年表にかかわった年月を終生忘れることは出来ないであろう.そして,この年月の間に,それぞれ,その人にふさわしく学問的にも人間的にも成長を遂げたのではあるまいか.今後,この年表編纂の基礎となったものが地方史誌や研究論文・資料集・資料目録等々として種々生れてくるであろうし,何よりもこの年表編纂を通して,石炭礦業史・エネルギー産業史を学ぶ若い世代が成長しつつあることは,まことに喜ぶべきことであろう.
 
 以上の過程からも分るように,編纂方針も二転,三転したが,最終的な編纂方針の要点を列挙すれば次の通りである.
 第1に,全般的に経済史的・産業史的な面に重点を置いた.前述したように総合年表を目標とした時期もあったが,編纂に力を注げば注ぐほど,統計・財政・金融・技術・炭礦医療,文化等々に不備な面があり,しかもこれらはいずれも高度の専門的知識を必要とし,今後の学際的研究によって明らかにされる面が多いと思われるので,名称も「総合」をとり産業史年表に重点を置き,--それは前記の不備な面を軽視してもよいということにはならないが--,名称も『筑豊石炭礦業史年表』としたのである.
 第2に,1830(天保元)年~1926(大正15)年を本篇とし,昭和期はすべて稿本とした.これは昭和期の資料が未だ全面的に公開されてはおらず,しかも公開されている資料だけでも,実に厖大なものであり,また実務に携わった現存の人々も多く,短い期間に主要な資料から採録し,正確な聴取調査をなすだけでも全く力に余ることであり,歴史事実を客観的に記述・評価するには,なお相当の年月を必要とすると思うからである.
 第3に,「地域社会」欄は種々論の分れたところであるが,ここでは一応筑豊石炭礦業と直接関係をもつ筑豊地域の地方史事項に重点を置き,田川市郡については編纂当初の経緯もあり,他の諸市郡より幾分か濃密に項目を挙げた.
 第4に,各項目の典拠資料はこれを明示した.資料は能う限り原資料を典拠とすることに努めたが,年表の性格上,二次的・三次的資料に依拠しているものも少なくない.なお当初の計画では索引をも付すつもりであったが,諸般の事情で断念せざるを得なかった.
 このほか,細部にわたる点は凡例を参照してもらえば理解出来るとおもう.また,全時代を通じて必ずしも一貫した方針でなく,時代によっては,統一のとれていないこともあるが,それはそれぞれの時代の特色を出すために,敢えて統一しなかった面もあることを付記しておきたい.
 なお編纂は委員会全員の総力にもとづくことはもちろんであるが,委員が地域的にも遠く離れ,資料も各地に散在しているので,その総轄・運営・連絡調整には編纂代表の秀村選三・田中直樹・永末十四雄があたり,校閲は主として1830~1895(天保元~明治28)年を秀村選三,1896~1926(明治29~大正15)年,1931~1945(昭和6~20)年を田中直樹,1927~1930(昭和2~5)年,1946~1968(昭和21~43)年を永末十四雄がそれぞれ担当した.