本年表の始期を1830(天保元)年としたのは,筑豊石炭礦業史の研究自体から積極的に設定したのではなく,わが国の近代史研究の始期を天保期におくところの学界の通念にしたがったものである.しかも編纂方針として,当初は田川地方史に重点が置かれていたため,主要な典拠資料としては田川郡金田手永大庄屋『六角家文書』(569),『宮崎百太郎氏採集石炭史料』(518~527,585)が挙げられていたにすぎず,それらの資料は殆んど天保以降を主とするものであり,その意味からも天保元年を始期とすることは一応便宜的な処置と考えていたからである.
その後,年表の性格が田川地方史の年表の性格を払拭して,筑豊石炭礦業史の年表に純化されるに及んで,筑豊各地の古文書を典拠資料に加えるようになったが,しかも最初設定した天保元年始期の線でデータを急速に蒐めざるを得なかったため,ついに天保以前にまで及ぶことが出来なかったのである.
もっとも天保以前について年表作成の意図を全くもたなかったわけではない.編纂の後期の段階では,全国石炭関係はともかく天保以前の筑豊石炭関係に限っては年表を作成し,天保元年以降の本編に対して前編とするつもりで,その編纂に努めたが,しかもなお時日を要することを悟って,中途において断念したのである.一つには豊前(小倉藩田川郡,その周辺諸郡)に関する資料が筑前(福岡藩の遠賀・鞍手・嘉摩・穂波4郡乃至その周辺諸郡)に関するデータに比べて著しく不足し,極端なアンバランスになるからでもあった.なお今後の調査と研究を必要とすることである.
しかしながら,天保以前の筑豊石炭礦業に関するデータは一応蒐め,また蒐めつつあるので,資料の大要についてのみ,ここで略述しておきたい.
石炭の採掘・利用については,全国的に当時の識者の著述に散見するが,簡単に窺うには『古事類苑』金石部1(鉱山上)・金石部2(鉱山下)に諸書の記述が列挙せられ,また岡田陽一「石炭考」(『筑豊石炭礦業組合月報』第283号」,「石炭考補遺」(同上誌,第293号),「本邦古代の採炭技術に就て」(同上誌,第327号)等に詳しい.しかしいずれも原資料にもどって学ぶことが必要であろう.また各産炭地域の古文書・古記録等で各地方史誌,論文等に収載されているものもあるが,全く世に知られていないものもある.本年表で天保以降に多く使用した佐賀藩多久領の『多久家(多久領主)文書』(298)なども,その一例である.
この時期の筑豊の石炭礦業は初期の伝説はともかくとして『大和本草』(宝永5年完成)によれば,石炭はすでに単なる自家用としてのみ採掘されたものではなかった.また貞享~正徳期に,豊前田川郡金田手永では石間歩代として銀小物成が課せられ,間歩の数も漸次増加していた.資料は乏しいが,当時の採掘状態と銀小物成の意味は今後明らかにしなければならない.さらに正徳頃には福岡・博多の町においても石炭は使用され,享保期には漁船の篝火や製塩業の燃料としても利用されるようになり,領内のほか領外への「旅売」に関する藩の規制が見える.1765(明和2)年には石炭売座元・石炭丁場油受売に運上銀が賦課せられたことは明らかで,明和9年には近年石炭高値のため,福岡の商人が石炭問屋を願い出て許可されている.1788(天明8)年福岡・博多において石炭仕組が定められたが,すでにそれ以前に芦屋炭売座のあったことも確実で,その後も芦屋炭問屋が見える.藩内各地で旅売仕組がなされ,ことに1816(文化13)年における遠賀・鞍手両郡の焚石旅売仕組の設定,芦屋・山鹿・若松における会所の設立は重要である.また1815(文化12)年に遠賀・鞍手両郡にて掘出しの屑石が多く,雨天の際に雫が田畑に流れ込み地味を衰えさせ,苗の植付が出来ない個所が出ていることは注目すべきであろう.
1759(宝暦9)年の遠賀川より若松に至る堀川の開通もきわめて重要で,はじめは貢米の輸送を主としたが,やがて石炭の輸送にも利用せられ,芦屋と並んで若松が石炭の積出港としても登場してくるのである.採炭の労働力としては貧農,「遊民」の「焚石掘手間賃稼」や他国からの「旅日用」(旅日雇)の流入も指摘し得る.農繁期には出炭少なく,石炭が払底し炭価が高騰するのが見られる.採炭は農閑期の余業であった.
資料・文献としては,筑前については『筑前国続風土記』,『和漢三才図絵』,『西遊雑記』,『安々洞秘函』,『済民草書』等の諸書にそれぞれ触れられており,また外国人による記録としてはケンプェル『江戸参府紀行』(『異国叢書』第6・7巻),シーボルト『参府紀行』(『異国叢書』第3巻)に記事が載っている.『福岡県史資料』(435)(第2巻下)には多数の古文書を引用しており,また「筑前の炭坑史料」(『福岡県史料叢書』(436)第7輯所収)はすでに戦災で焼失した資料の原文にもとづき書かれた伊東尾四郎氏の「私稿」による記述で貴重である.さらに本年表の天保以降にも多く使用した『御仕立炭山定』(50)(黒田家文書)は天保以前についても最も豊富なデータを提供し,福岡藩の石炭に関する規制の動向を察し得るであろう.豊前については六角家文書に諸資料が散見されるが,前述のように豊前についての資料は全般的に少ない.総じて筑豊の村方文書の細密な調査によって,今後この時期の資料はなお多数発見されることと思われる.
なお筑豊ではないが,周辺の郡として,粕屋・那珂・席田郡に関しては『博多津要録』,前述『御仕立炭山定』のほか『粕屋郡仲原村記録』にもとづき書かれた桧垣元吉「九州石炭史の研究」(『史淵』第50輯)がある.堀川に関しては堀川庄屋『一田家文書』(22)が最も重要で,このほか「遠賀川疏水之碑」,『遠賀郡誌』(上巻)(57),『八幡市史』(続篇)(546)所引の資料等も注意してよい.塩浜における石炭の使用については松崎武俊氏所蔵の『筑前津屋崎塩浜文書』が享保期からであり,安永年代以降瀬戸内の塩浜における石炭の使用は『日本塩業史』(366),『赤穂塩業史』(4),『日本食塩回送史』(691),『日本塩業の研究』(第2・3集)等々に見られるが,今後瀬戸内の塩浜関係の文献・古文書により,なおデータを豊富にし得るであろう.ちなみに諸書にしばしば引用される明和年代和田佐平による製塩業への使用は必ずしも確たる古文書の典拠に乏しいようで,再考の要があるように思われる.