前述のように日本近代史の始期を天保元年に置くという学界の通念にしたがって,便宜的に本年表も1830(天保元)年からはじめているが,1853(嘉永6)年ペルリの浦賀来航,安政の開国以後,石炭に対する関心も著しく変化するので,一応1852(嘉永5)年をもって区切りとして,この間の典拠資料の特徴をうかがうこととする.
この時期には,筑後国三池,肥前国高島・唐津・多久,長門国舟木等では以前より石炭の採掘がなされていたが,筑豊においても前述の如き家事用燃料から,鍛冶用ことに製塩燃料への転化,領内より領外への石炭市場の進展にともない専業の山元を生み,福岡藩では1837(天保8)年従来の仕組制度をさらに整備して30項目よりなる焚石会所作法書を作成,東4郡(遠賀・鞍手・嘉麻・穂波4郡)にわたる仕組制度の確立を見たのである.その後迂余曲折はあったにせよ,石炭の生産と流通に関する領主的規制・支配は確立したのであった.その重要性は以前から説かれているが,今後は仕組制度・焚石会所・山元御救・焚石益金・村方御救等々について,たんに制度史的でなく新史料を加えて個別的,具体的に把握してゆく必要がある.小倉藩も福岡藩に応じて,1844(天保15)年(?)赤池会所を設置するに至るが,遠賀川の本流と堀川は福岡藩領にあり,福岡藩の芦屋・若松両会所を通じて旅出しされるもので,筑豊の石炭礦業は福岡藩の主導下に展開してきたといえる.かくして遠賀川・堀川の川艜も年貢米輸送から焚石輸送へと展開してゆくのである.
年表の記載事項としては,「全国石炭関係」欄では肥前地方がとくに多く,このうち佐賀藩多久領の『多久家文書』(298),肥前国松浦郡梶山村庄屋『峰家文書』(516)が原資料にもとづくもので,そのほか『伊万里市史』(26),『相知町誌』(上巻)(44)も利用した.原資料の利用は本年表編纂の時期に肥前多久地方の資料調査をしていたという理由にもとづくもので,他の地方にも多数の古文書が存在していることはもちろんである.長州については『防長風土注進案(舟木宰判)』(690)に見える記述を収録し,その他に『宇部市史』(32)を利用した.なお瀬戸内製塩業における石炭利用については『赤穂塩業史』(4),『近世日本塩業の研究』(127),『日本塩業史研究』(717)等,塩業史研究の文献を利用したにとどまる.今後山口県文書館や瀬戸内の製塩地域の古文書を製塩業における石炭使用という観点から採訪する必要を感じる.また三池については『大牟田市史』(上巻)(48)収録の資料や伝習館文庫(柳川藩藩政史料)なども丹念に探ることが重要であろう.
「筑豊石炭関係」欄では鞍手郡上境触大庄屋『加藤家文書』(82),同郡金生触大庄屋『石井家文書』(16),遠賀郡修多羅触大庄屋『楠野家文書』(128),同郡楠橋村庄屋『田代家文書』(303),堀川庄屋『一田家文書』(22),嘉麻郡綱分触大庄屋『有松家文書』(12),田川郡金田手永大庄屋『六角家文書』(569)等を利用し,『宮崎百太郎氏採集石炭史料』(518~527,585)もあわせて利用した.宮崎氏の採集は昭和前期になされていて,今日では原文書のないものも含まれていて貴重である.豊前(小倉藩)と筑前(福岡藩)との石炭流通の結節点である上境触大庄屋加藤家の文書を利用できたことは特筆してよいであろう.同文書には舟運関係にもすぐれた資料が多い.しかし加藤家文書に限らずこれらの古文書はいずれも相当大量のものであるため,年表編纂にあたって,短日月の間に焚石関係の資料を抽出したにとどまっている.いかなる資料もそうであろうが,とくに近世の村方文書はその全貌をおおよそ窺い知って,はじめて各1点ごとの文書・記録の位置づけが出来るのであり,単なる抽出は危険ともいえる.その点では各文書群の研究が充分に進まない限り,ここに採録された事項も資料の一断片にとどまり真の意味を発揮しないと思われる.また,表題に焚石,石炭,艜等の文字がないため漫然と見逃した資料も多く,今後なお前述の各家文書の丹念な調査・研究が望まれる.しかも一方では今後未知の古文書も新しく発掘されることが充分予想される.本年表校了後にも鞍手郡から『吉柳(きりう)家文書』の発見が報ぜられ,その中に多数の石炭関係の資料があることを知った如きである.
地方史誌としては主に『福岡県史』(第2巻下)(433),『直方市史』(上巻)(605)等を利用したにとどまるが,これは筑豊地域において地方史誌の刊行が少ないというのではなく,資料批判の欠如が地方史誌の価値を低めていて,利用に不安なものが多いからである.藩政の石炭に対する規制の動向は前述の福岡藩『御仕立炭山定』(50)を利用したにとどまり,小倉藩側では適当な資料を得なかった.
「地域社会」欄では前述の各家文書のほか,遠賀郡『末松寛蔵家文書』(236),『末松九万生家文書』(237),『佐藤家文書』(187),『波多野家文書』(415),『宇都宮家文書』(677),『大和兵庫家文書』(553),『香月家文書』(80),『田川郡中村家文書』(362),および福岡湊町『加瀬家文書』(678)等を使用し,ほかに『福岡県史』(433),『福岡県史料叢書』(436),『遠賀郡誌』(57),『鞍手郡誌』(132),『嘉穂郡誌』(86),『田川郡誌稿』(292),『方城町誌』(469)等も用いたが,全般的にいって未だ福岡・小倉両藩の藩政史・農村史の研究が充分進展していない現段階では,「地域社会」欄の各事項は必ずしも体系的・系統的な配列にはなっていない.また多数の資料の存在する中でサンプル的に採録・掲示したものもある.たとえば他国からの日雇稼(所謂「旅日雇」)が罹病のため宿村継で国元へ送還されるが如きは諸資料に実に多数存在するが,「地域社会」欄に二,三を挙げるにとどめた.「筑豊石炭関係」欄において石炭掘子たちの中に他国出身者が存在しているのと照応させたつもりである.