1853(嘉永6)年ペルリの艦隊の来航は産業革命・交通革命の尖兵が蒸気船をもって「極東」の日本に到達したことを意味する.すでに1840年代から東アジアの海域は「蒸気船時代」に入っていたが,今や日本もその中に組み入れられた.しかも蒸気船による定期航路が世界的に完結する最後の一環としての意味を日本はもっていた.定期航路の発展には修船工場・ドックや灯台その他の港湾設備・電信等と共に,石炭の補給がきわめて重要であるが,イギリス炭・オーストラリア炭輸送費の高額,舶用機関の未発達による石炭の多量消費のため,東アジアにおける舶用炭の不足は深刻なものがあり,そのため日本炭に対する期待は大きく,今まで国内の製塩燃料に主に使用されていた石炭の価値を全く見直させた.すでに阿片戦争期にはじまる石炭輸出は,安政の開国後,市場を著しく拡大して従来の長崎貿易に大きな変化をもたらした.また幕藩領主による蒸気軍艦の輸入,製鉄所(造・修船所),製錬所の設立は国内的にも石炭の需要を増した.このため長崎港外の高島炭坑の石炭は舶用炭に最適なものとして内外に注目せられ,佐賀藩とグラバー商会(後,オランダ貿易会社)との合弁事業--外国資本・外国技術の導入を招来した.外国資本が排除されてゆくのは明治5年の鉱山心得頒布以降をもってである.さらに長崎に近い肥前唐津炭田は運輸の便宜性や自然排水に恵まれて著しく発展し,同地方には西南諸藩(薩摩・肥後・久留米)も石炭山経営に進出するようになった.
これに対して幕府では石炭に対する積極的対策は乏しかったと思われる.長崎港への御用石積廻しを命じてはいるが,長崎における石炭輸出の拡大や西国における炭坑の開発には西南諸藩ほどの積極性をもたず,西南では後退してむしろ茅沼・岩内・白糠等北海道の諸炭坑の開鑿に努めていたようである.
かかる新しい時代の動向に対して,筑豊炭田は必ずしもよく対応出来なかった.深敷掘による経営費の増大,排水の困難,川艜輸送の限界,仕組法による規制のため,全体的に生産性は停滞していたかに思われる.1871(明治4)年の廃藩置県,'72年の鉱山心得の頒布,'73年の日本坑法の制定により,仕組法は解体し次の新しい事態を迎えることとなるが,仕組制のもとでの山元や村方の実態,あるいは石炭問屋がいかなる進展をなしつつあったか,それが明治前期にいかに連続してゆくのであろうか,今後の興味ある課題であろう.
この間の主要な典拠資料は「全国石炭関係」欄では,『維新史料綱要』(17),『大日本古文書』(幕末外国関係文書)(284),『工部省沿革報告』(162),『海軍歴史』(62),『大島高任行実』(43),岡田陽一「江戸時代外人の観たる日本の石炭」(584)等であり,とくに長崎に関しては『要録』(556),『御用留』(長崎奉行所記録)(349),『外務課事務簿』(74),『長崎三百季間』(352),『長崎叢書』上・下(354),『幕府時代の長崎』(411),『長崎幕末史料集成』(356)等によっているが,今後も長崎図書館所蔵文書を丹念に探る必要がある.高島炭坑に関しては,『高島石炭坑記』(288),『松林公留君略伝』(490),唐津炭田に関しては『鉱山沿革調』(149),『鉱山志料調』(153),『相知町史』(上巻)(44),北海道に関しては『北海道鉱山略記』(472),『開礦百年史』(64),『新北海道史』(660)等によった.なお薩摩藩や肥前佐賀藩の幕末の新事業と石炭の関係として『薩藩海軍史』(185),『鍋島直正公伝』(357),『佐賀藩銃砲沿革史』(183)等を用いた.
「筑豊石炭関係」欄については前代と同様に各地の大庄屋・庄屋の古文書--遠賀郡『楠野家文書』(128),『田代家文書』(303),『一田家文書』(22),鞍手郡『加藤家文書』(82),『石井家文書』(16),嘉麻郡『有松家文書』(12),田川郡『六角家文書』(569)等を利用し,このほか『宮崎百太郎氏採集石炭関係史料』(520,524,527),『福岡県史』(第2巻下)(433)等も主要な典拠資料としたが,さらに遠賀郡『佐藤家文書』(187),鞍手郡『飯野家文書』(15),『香月家文書』(80),田川郡『世良家文書』(679),『早川家文書』(697),『旧三田尻塩田組合文書』(500)等も加わる.石炭の流通関係については(「生産過程への喰込み」も含めて)『中原嘉左右日記』(360)が豊富な資料を提供している.しかし,これらの原資料からの採録には限界があって,系統性を欠きやすいので,今後なお各文書を丹念に研究しつつ,その過程で石炭関係の資料を見直す必要がある.この点は「地域社会」欄についても同様で,古文書・地方史誌等を典拠として相当豊富に事項を挙げ,また従来知られていなかった事実を示してはいるが,各家の古文書の全面的な研究,福岡・小倉両藩の藩政史・農村史研究の進展にともない当然書き変えられねばならないであろう.
ともかく,この時期までの資料は古文書を中心とするため,各事項は断片的事実にすぎないことが多い.しかし現在の研究段階では,そのために捨てるべきものではなく,むしろ今後も断片的事実をより豊富に集積してこそ,おのずから事実の軽重の判断,あるいはより大きな事実への総合が出来るのであるから,ここでも一事項としてはそれほど重要でなくても,事実として確実な限りは能う限り採録し,今後の研究に備えたつもりである.