4 1873~1887(明治6~20)年

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 1872(明治5)年頒布の鉱山心得は鉱山王有制と本国人主義を確立させ,その原則の上に翌'73年の日本坑法は土地所有と坑区所有の分離,坑物・借区開坑・坑業等について詳細に規定した.もっとも政府の関心は最初は金属鉱山にむけられていたため,三池・高島・幌内等を官収し,官営としたけれども,政府の方針は必ずしも確立せず,高島は後藤象二郎に払い下げられ,やがて三菱の経営に移った.三池は明治9年ポッターの着任以来の技術導入と三井物産による海外輸出の進展により急激に発展してくゆく.一方政府は幌内の開鑿に努めた.この時期における外国人技術者の果した役割はきわめて大きい.上海・香港を中心とする東アジアの石炭市場には三池・高島炭を先頭として日本炭は大きく進出し,市場を支配するに至るが,炭坑の労働条件は高島の納屋制度,三池・幌内の囚人労働に象徴される如く劣悪なものであった.
 この段階まで舟運の便や炭層が採炭に比較的容易なため,肥前唐津炭田のもつ比重はなお大きく,小炭坑が簇立しており,政府もその優良坑区を海軍予備炭田に編入していた.
 後述する如く明治10年代後半に筑豊の開鑿が進むにつれて採炭の中心は筑豊に移り,海軍予備炭田も筑豊へ切り換えられてゆく.すでに,これ以前より外国汽船会社の定期航路が横浜に伸びるに及んで外国貿易における長崎の地位が相対的に低下していったことも注意しなければならない.このほか明治10年代の後半,「全国石炭関係」の主要事項としては,1884(明治17)年9月佐賀県石炭坑業規則の制定,1885(同18)年1月日本鉱業会の設立,1886(同19)年5月の宇部共同義会の設立,さらには同年3月,東京大学理学部と工部大学校が合体して帝国大学工科大学が設立され,その採鉱冶金学科は新しいタイプの技術者を輩出することになる.
 「全国石炭関係」欄で典拠とした主要な資料は『法令全書』(708),『法規分類大全』(467),『官報』(695),『工部省沿革報告』(162),『農商務卿報告』(403),『農商務統計表』(405),『商况年報』(727),『官雇入表』(737),『官庁並人民雇外国人明細表』(712),『日本鉱業会誌』(376),『三菱合資会社社誌』(510)等であるが,法令については,もっと系統的に細密に見直す必要があり,『東京経済雑誌』(336),『大隈文書』(703)もサンプル程度に利用したにすぎない.
 三池については『三池鉱山年報』(497),『官営時代参考書類』(95),『三池鉱業所沿革史』(508),『三池鉱山寮書類』(675),『日記』(三井物産)(673)等によったが,中でも『三池鉱山年報』はもっとも重要なものである.このほか『雇英人ポッター陳意録』(545)は一時期に限りサンプル的にしか使用出来なかった.
 高島については『工部省沿革報告』(162),『高島石炭坑記』(288),『日本労務管理年誌』(398),『日本労働運動史料』(395)等によっている.このほか『高島炭坑訴訟記録』〔ジャーディン・マディソン訴訟記録〕および三菱高島鉱業所旧蔵のこの時期に関する諸資料は重要なものであるが使用しなかった.肥前唐津・松浦の炭田については,『鉱山沿革調』(149),『鉱山志料調』(153)によったが,不充分な使用に終っている(『三菱商社石炭条約一件』,『唐津石炭売捌方法並予算』,『唐津石炭売捌条約草案』等は有力資本の石炭業進出を示す基本資料である).このほか佐賀県立図書館の佐賀県庁引継文書は断片的に使用し,多久地方の『多久家文書』(298)は一部使用したが『副島家文書』,『安倍家文書』等未使用のものが多い.北海道については,『工部省沿革報告』(162),『開拓使事業報告』(71),『北海道鉱山略記』(472)が主なる資料である.なお『工学叢誌』,『工学会誌』は重要な資料であるが,これを利用できなかった.
 筑豊においては仕組法廃止後も福岡県は芦屋・若松に石炭改所・福岡県出張所を置いたが,従来の製塩業のほか新たに関西(船舶用,さらに新たに興りつつある工場用)に需要がおこり石炭問屋が大いに活躍する.中原屋はその一例を示すものであろう.筑豊各地の村方地主・村方商人層によって頻繁に借区開坑されるが,その規模はいずれも小さかった.小規模炭坑主の中には将来「地方大手」の経営主となるものも,石炭市況と共に浮沈しつつ発展の素地を固めつつあった.しかし筑豊の石炭礦業の発展を阻止したのは何よりも湧水であり,明治10年前から排水への努力がなされ,明治10年代前半には蒸気機関による排水が可能となって発展の端緒を掴み,やがて市場の展開と共に小規模でありながらも隆盛へ向かってゆく.やがて小坑濫立をふせぐと共に,川艜の統制のために1885(明治18)年には筑豊石炭坑業組合が結成された.すでに明治10年代後半には唐津炭田の停滞に比べ,筑豊での石炭生産量は累年増大の一途をたどった.すなわち,1887(明治20)年全国総出炭量中,筑豊の比重は23.5%で,まだ肥前(長崎,佐賀)より低かったが,肥前の三菱系の炭坑を除けば,筑豊はこの年から肥前を凌駕していたのである.
 このような肥前炭にかわる筑豊炭の進出は,輸送にも著しい影響を与え,明治10年代後半~20年代前半まで,川艜がもっとも隆盛をきわめた期間であった.しかし川艜の増大は,かえって石炭運送の渋滞を招き,早晩,鉄道輸送によって代わられるべき運命にあった.
 筑豊炭田の比重が増していったとはいえ,坑区規模および生産規模は零細で,経営規模の拡大は,次の明治20年代初頭の海軍予備炭田の解除,撰定坑区制の実施以降であった.
 明治10年以前と10年代とくに後半での典拠資料の性格は相当異なるが,「筑豊石炭関係」欄における主要な資料は明治16年『鉱山借区一覧表』(734),『福岡県勧業年報』(427),『福岡県勧業月報』(642),『福岡県統計書』(442),『福岡県令達類纂』(442),『福岡県発令全報』(644),『福岡県史稿』(434),「福岡日日新聞』(453),『中原嘉左右日記』(360),『白土善太郎日記』(205),『福岡県農事調査』(447)等である.このほか一部しか使用できなかったが『山口家文書』(549)は重要な資料であり,また杉山徳三郎の『筑前炭山日記』(692)はごく一部をフィルムにて見得たにとどまる.原本は最近まで残っていたが,すでに散佚したようで,きわめて残念なことであった.明治19年『鉱山借区一覧表』は利用することが出来なかった.
 「地域社会」欄では『福岡県史槁』(434),『西田家文書』(365),『秋季勧業大集会決議録』(667)等は重要であり,その他多くの資料を用いた.石炭礦業に限らず一般的に明治10年代の福岡県は種々新しいものの胎動していた時代で,今後の研究で明らかにされねばならないことが多い.