日本石炭礦業は,この期間に大きな変貌をとげていく.政策的には,官営炭坑の払下げ,撰定坑区制の実施,海軍予備炭田の解放,鉱業条例の施行,およびそれに伴う鉱山監督署の設置を指摘できよう.なかでも,1888~89(明治21~22)年に実施された撰定坑区制の実施は画期的なもので,大規模な炭坑が形成される契機となった.
構造的には,明治20年代の前半期に諸工業の勃興,鉄道の延長により,工場用炭が製塩用・船舶用炭を凌駕するに至った.また,明治21,22年の石炭坑区の撰定から日清戦争に至る時期は筑豊炭田が急速に発展し,わが国の石炭礦業界において主導的地位を確立した時期でもあった.坑区撰定とそれに続く海軍予備炭田の解除により,三菱・三井・住友・古河等,中央の大資本が進出し,筑豊の炭坑規模は飛躍的に拡大してゆくのである.
この頃,納屋制度による苛酷な労務管理が行なわれていたが,とくに,三菱高島の事例は,一大社会問題として顕在化したが,その後も納屋制度は労務管理の中心をなした.一方官営の各炭坑では囚人が採・運炭の主軸をなしていた.幌内・空知・幾春別の炭坑の払い下げを受けた北海道炭礦鉄道が明治27年末に囚人労働を廃止したのに比べ,三池炭坑は三井へ払い下げられた後もこの方針が踏襲されたのであった.
この期間の「全国石炭関係」欄における主要な資料は,『日本鉱業会誌』(376)『農商務省報告』(404),『外国貿易概覧』(65),『日本鉱業発達史』(379),『三池鉱業所沿革史』(508)をはじめとする三井鉱山関係資料,『三菱合資会社社誌』(510),『七十年史-北海道炭礦汽船株式会社-』(197)『日本労働運動史料』(395),『日本労務管理年誌』(398)等々である.
筑豊に関しては前述の撰定坑区制はきわめて重要である.筑豊石炭礦業における産業革命の規定如何はなお慎重に考慮すべきことであるが,撰定坑区制が一つの重要な契機になることは論を俟たないであろう.撰定坑区制の実施とそれに続く海軍予備炭田の解放を契機に,筑豊は生産量だけでなく,蒸気機関の普及,排水,捲揚を中心として機械化が促進され,ダイナマイトの使用も開始され,経営規模においても飛躍的な伸長をとげ,日清戦争後,さきの中央資本をはじめ,後に地方大手と称される明治(安川・松本)・貝島・麻生・許斐・蔵内をはじめとする地場資本もようやく安定した地位を確立するのである.
他方,九州鉄道・筑豊興業鉄道・豊州鉄道の開通は,「地域社会」欄にあげられた門司港・若松港の港湾整備と相俟って石炭の輸送問題を一挙に解決した.それまで,石炭輸送を全面的に担っていた遠賀川の川艜は,1889~90(明治22~23)年をピークに漸減し始めていく.
また,「特別輸出港規則」の公布により,下関・門司の両港をはじめ若松はにわかに活況を呈し,筑豊炭も香港,上海をはじめとする東南アジア市場へ順調な伸びを示していった.
この時期,「筑豊石炭関係」欄で主要な資料は『福岡県勧業月報』(642),『福岡県勧業年報』(427),『福岡県統計書』(442),『住友石炭礦業株式会社資料』(143,144,220,240),『田川鉱業所沿革史』(502),『峯地炭坑文書』(583),『古野家文書』(465),『福岡日日新聞』(453),「福陵新報』(456),『門司新報』(542)であり,『福岡日日新聞』は撰定坑区その他に重要な記事を載せ,明治25年創刊の『門司新報』は石炭新聞といってよい程豊富に石炭関係記事を載せ,重要である.収載量は少ないが,注目すべき資料では,『赤池鉱山一斑』(1),『田川採炭会社第壱回報告書』(728),『筑豊興業鉄道会社報告』(608),『田川採炭豊国炭坑書類』(293)がある.
鉄道および港湾関係については,主に『日本鉄道史』(707),『日本国有鉄道百年史』(382),『鉄道局年報』(333),『鉄道年表』(332),『門司港誌』(541),『若松築港株式会五十年史』(573),『八十年史(若築建設株式会社)』(688)を参照した.
この頃採掘に関する村方規制もほとんど解体していたと思われるが,そうした中で鉱害は頻繁となり,地元民と炭坑と係争を繰り返すこともしばしばあった.この期間の鉱害資料では『松岡家文書』(487),『峯地炭坑文書』(583),『三菱合資会社社誌』(510),『住友石炭鉱業株式会所蔵資料』(240)等々である.
このほか,「地域社会」欄では,前期から続く『福岡日日新聞』(453),明治20年創刊の「福陵新報』(456),25年創刊の『門司新報』(542)等の地元新聞がこの時期を肉付けしている.
なお,重要な資料でありながらサンプル程度にしか収録しなかった文献に『筑豊石炭鉱業組合関係資料』(724)があり,『明治27年2月28日調福岡鉱山監督署内試掘採掘採取一覧表』,『(赤池礦山)旧借区譲受書類』,『福岡県豊前及筑前煤田地図及説明書』,『植木炭坑日誌』,『旧三菱鯰田炭坑事務長日誌』は全く収録できなかった.
本年表の校了まぎわに『吉柳家文書』,『許斐鷹介関係資料』の所在を知りえたが,残念ながら間に合わなかった.撰定坑区の研究には欠くことの出来ぬ資料であろう.