日清戦争後から日露戦争を経て,明治末年に至る期間は,紡績をはじめとする諸工業の興隆,鉄道の伸長,港湾輸送施設の拡充,上海・香港をはじめとする東南アジア市場での輸出用炭の順調な伸び,さらには近代的な設備による大規模な石炭企業の出現等々により,各炭田とも飛躍的な発展をみるに至る.すなわち,1897(明治30)年の全国石炭出炭高は522万トンであったが,1911(同44)年には,1,753万トンへと増大した.
明治晩年における主要炭坑(年産20万トン以上)は次のとおりである.三井(三池・田川・本洞・山野),貝島(大ノ浦),北炭(夕張),明治(明治・豊国),製鉄所二瀬,三菱(新入・鯰田・相知・金田・芳谷・高島・方城),古河(塩頭・目尾),住友(忠隈),磐城(内郷),入山,麻生(芳雄),大任,峰地,高江.
このような日本石炭礦業の伸長期において,「鉱業条例」は桎梏となり,明治38年,新たに「鉱業法」が制定され,鉱業全般にわたって,新たに法的な整備がなされてくる.
このほか,この期間における特色をあげれば,第1に大規模な開鑿にともなう炭坑事故の増大を指摘できる.すなわち,明治32年の豊国炭坑の瓦斯炭塵爆発事故(死亡者215人)を惹起し,明治30~40年代から大正初期にかけて大災害が多発する.石炭礦業の発展に即応すべき災害予防の研究施策の不足のため,とくに,瓦斯爆発事故が頻発し,死亡者及び負傷者の著しい増加を招いた.
第2に日露戦争後における工場・鉱山における同盟罷工,あるいは騒擾事件の続発である.日露戦争を契機とする設備の近代化とそれにともなう労務管理体制の変化,あるいは物価騰貴の要因により,1907(明治40)年4月の幌内炭山,7月の夕張炭山,あるいは2月の足尾銅山,5月の別子銅山の騒擾は大規模であった.この頃における金属鉱山の労働運動,とりわけ大日本労働至誠会の動向は無視しえないが,本年表の視点が異なるので記載しなかった.
第3に採鉱冶金に関する専門技術者の養成の充実がなされた.東京帝国大学に次いで,明治32年,京都帝国大学に採鉱冶金学科,同44年,九州帝国大学に採鉱学科・冶金学科が設置された.また,中等・高等技術者養成機関としては,明治42年設立の明治専門学校,43年設立の秋田鉱山専門学校,筑豊・三池の地域の初級技術者養成校として,福岡県立工業学校(明治29年),赤池鉱山学校(同35年),三井工業学校(同40年)が設立された.
第4に南満州鉄道の営業開始にともなう撫順炭坑の開鑿,あるいは旧領土(朝鮮・台湾・樺太)における鉱業開発を指摘できよう.
資料上では,明治20年代と比較してかなりの変化が生じてくる.
「全国石炭関係」欄では,ほぼ明治30年代まで前期と同様な資料であるが,30年代末に入ると,『本邦鉱業一斑』(479),『本邦鉱業ノ趨勢』(480)が創刊され,とくに後者は,その後における本年表の基礎資料の一つとなっている.このほか,同欄での主な資料は,『明治工業史』(532),『日本鉱業発達史』(379),『鉱夫待遇事例』(163),『鉱夫調査概要』(164)である.労働運動関係では,『平民新聞』(814),『社会新聞』(807),『光』(813),『熊本評論』(130)からも若干収録した.収録数は少ないが,『北海道鉱業新報』(681),『鉱業新報』(142)は注目すべき資料である.
明治20年代の後半,石炭礦業における不動の地位をかためた筑豊の諸炭坑は,30年代以降も飛躍的な伸長を見るに至る.この過程で,三井田川の伊田,製鉄所二瀬中央坑,三菱方城,貝島大之浦第3坑等々の大竪坑が開鑿起工されていった.
筑豊地域がいわゆる炭坑町の様相を形成し,官営八幡製鉄所の設立,洞海湾を中心に重工業地帯が築かれ始めるのもちょうどこの期間であった.また,鉄道網の急速な伸びも筑豊地域社会が発展していく上で重要な要因の一つであった.
明治30年代初頭の筑豊諸炭坑の状況を克明に伝えている『筑豊炭礦誌』(321),同37年から創刊された『筑豊石炭鉱業組合月報』(318),『日本炭礦誌』(388),従前からの『福岡県統計書』(442),それに各企業社史が「筑豊石炭関係」欄の主たる資料である.
『福岡日日新聞』(453),『九州日報』(630),『門司新報』(542)の各新聞も地域社会の景況を詳細に伝えている.鉄道・港湾関係の主たる資料は前期同様である.
収録数は少ないが,注目される資料に『豊国炭坑諸達録』(468),『明治鉱業株式合資会社初期諸規則』(533)がある.なお『筑豊四郡煤田調査報文』は重要資料でありながら参照しえなかった.