7 1913~1926(大正2~15・昭和元)年

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 この期間は,第1次世界大戦前・後における好,不況の景気の波に左右されて,浮沈の激しい時代であったが,石炭礦業全般--鉱業政策,企業者活動,労務管理,鉱業技術--にわたって改革がなされた.全国の石炭出炭量は,1913(大正2)年の2,130万トンから,大戦間を通じて急膨脹してゆき,1919(大正8)年には3千万トンを超える量に達した.しかし,戦時景気の反動も大きく,大正9年以降,恐慌の渦に巻込まれ,その後,日本石炭礦業は低迷を続ける.明治末期より,撫順,開平,山東の各炭田は出炭量の増大と東南アジア市場への進出が注視されていたが,この期間に著しい発展をとげる.日本国内においては,1924(大正13)年以降,撫順炭,開〓炭等の輸入増加により,輸出・入が逆転し,輸入超過を示すに至る.
 また,北海道における炭坑開発が本格化し,とくに財閥系の進出が著しいのもこの期間の特色である.この期間の主要な点を指摘すれば次のとおりである.
 第1は,大正10年10月,長期的な不況を契機に全国各地の鉱業組合を母体とした石炭鉱業聯合会が設立され,送炭制限を実施していく.第2は,明治期末より蒸気動力に代わる電気動力の使用はこの期間に本格化し,技術的な革新による経営合理化を促進した.すなわち,採炭及び支柱法の改善,切羽運搬機の利用,主要捲揚機の増設,坑内電気機関車の利用,選炭機の改善等々である.第3は,労働運動は冬の時代を脱し,とくに米騒動以後,各地で活発な運動が展開され,大正9年には全日本鉱夫総聯合会が設立されるに至る.第4は,鉱山労働運動の昂揚により,経営者は必然的に労務管理の再検討を余儀なくされ,共済組合などの設立を中心に幅広い施策を講じていく.なお,鉱業政策では,「石炭坑爆発取締規則」(大正4年12月),「鉱夫労役扶助規則」(同5年8月),「健康保険法」(同11年4月)等々の法律が公布されている.
 「全国石炭関係」欄で最も基本的な資料となっているのは『本邦鉱業ノ趨勢』(480)である.
 石炭鉱業聯合会の活動記録については,『石炭鉱業聯合会理事会書類』(251)があり,大正12年以降を参照している.また,同会の機関誌『石炭時報』(254)は,1926(大正15)年4月に創刊されており,それ以降における重要な資料の一つとなっている.このほか,主要な資料は,『本邦重要鉱山要覧』(482),『日本鉱業会誌』(376),『日本鉱業発達史』(379),『北海道鉱業誌』(471),『常磐炭礦誌』(224),『肥前炭礦誌』(422)それに従前からの『三菱合資会社社誌』(510),『三池鉱業所沿革史』(508)をはじめとする企業社史等々である.労働運動に関する資料については,『日本労働年鑑』(397),『社会政策時報』(212),『総同盟五十年史』(275),『日本労働運動史年表』(394)を中心に参照している.
 「筑豊石炭関係」欄は,明治期後半より継続した資料の『筑豊石炭鉱業組合月報』(318),『本邦鉱業ノ趨勢』(480)が骨子となっており,それに各々の企業社史,鉱業所資料が肉付けをなしている.主なところでは,『田川鉱業所沿革史』(502),『山野鉱業所沿革史』(576),『住友石炭鉱業株式会社所蔵資料』(220)(240),『共同石炭鉱業株式会社沿革史』(124),『社史-明治鉱業株式会社-』(214),『三菱筑豊礦業所資料』(512)である.新聞は前代と同様,『福岡日日新聞』(453),『門司新報』(542)が重要な役割を果している.
 次に,大正期における労働運動の勃興とそれに伴なう資料の収録は本欄の特色ともいえる.主なところでは,『鉱山労働者』(158),『民憲新聞』(528),『大辻炭坑事件検事聴取書』(759),『福岡県無産運動史』(451),『日誌-麻生炭坑本社労務係-』(618)である.『水平月報』(616),『大衆事報』(282)は筑豊における被差別部落の解放運動および炭坑労働運動に欠くことのできぬ文献である.被差別部落の問題は筑豊にとってきわめて重要な課題ではあるが,視点を異にして新たに研究していく必要があろう.米騒動に関しては大部分を『米騒動の研究』(174)より参照し,『検察庁文書』は所在を知りながらも資料の量に驚倒しあえて採録しなかった.なお,筑豊ではないが『三井鉱山株式会社所蔵資料(Ⅸ)』(494)は,三池における米騒動とその後における労働運動の資料として貴重である.『八幡製鉄所労働運動誌』(548)は,単なる企業の労働運動史という視点からだけでなく,北九州工業地帯の労働運動の動向を克明に描写しており,筑豊のそれについても参考となる資料である.同書を編んだ故甲斐募氏の蒐集資料に校了間ぎわになって接したが,本年表には間に合わなかった.北九州・筑豊の労働運動を考察するうえで欠くことのできぬ資料であろう.
 このほか,大正期から昭和初期にかけて特筆すべき文献が幾つかある.『福岡,佐賀,熊本,鹿児島,愛媛,高知及鳥取七県ニ於ケルワイル氏病調査報告』(682)もその一つである.元来,ワイル氏病は農村地方特有のものであるが,炭坑においても坑夫から最も恐れられていた病気であった.炭坑医療の分野で献身的な研究を続けてこられた石西進博士の存在を知りながら,面識をえないまま逝去され痛恨この上ない.また,令息の石西伸教授からもご教示いただいたが,残念ながらわれわれは専門外で,御意見のみを拝聴したにとどまった.明治の中期以降,筑豊における炭坑夫の労働供給源は,西日本各地の農村地帯に求められるが,『筑豊炭山労働事情』(323),『筑豊炭鉱労働者出身地調査』(322)はこの面で好個の資料である.大正の中頃より,朝鮮人労働者の炭坑への就労が急激に増加するが,『管内在住朝鮮人労働事情』(762)は,その一端を窺うことができる.石炭礦業の発展に伴って,地域社会へさまざまな鉱害をひきおこしたが,これらについては,『福岡県に於ける炭鉱業に因る被害の実状調査』(636)から多くの例証を採録した.
 筑豊にかぎらず,前代同様この期間においても,若鍋,夕張炭坑をはじめ大災変が続発し,このため「石炭坑爆発取締規則」(大正4年12月)がようやく公布され,また直方に石炭坑爆発予防調査所が設立された.明治期後半より1917(大正6)年までの炭坑事故については,主に『炭礦爆発誌』(311),『鉱山保安年報』(155)と前記の新聞を参照した.なお,私立筑豊鉱山学校(大正7年5月設立)の技術教育資料と前記の『筑豊石炭鉱業組合関係資料』(724)は重要な資料であるにもかかわらず採録できなかった.