昭和期は編纂過程で述べたように稿本である.
石炭礦業の資料は無限に近く,これらの資料の所在目録についてはほとんど手が差しのべられていない状況である.中央・地方の諸官庁,各企業,各労働組合,および諸団体所蔵資料の蒐集と所在目録の作成,次いでこれら諸資料の検討の批判を踏まえてこそ,より正確な事実が浮きぼりにされてくるであろう.例えば,戦時期における物資動員の資料,戦後における配炭公団,炭労・全炭鉱,あるいは各企業の個別資料をはじめ厖大な資料が各地に散在している.日本石炭礦業の崩壊過程で,多大な量にのぼる資料が散佚してしまったが,しかし,歴史的に日時の浅い昭和期については,これから新しい資料がいっそう発掘されてくるであろう.
昭和2~20年までの石炭礦業の趨勢は次のとおりである.日本石炭礦業は,1920(大正9)年のいわゆる戦後恐慌以降,昭和初期にわたって,久しく不況に見舞われ,深刻な影響を受けた.このため,石炭鉱業聯合会は,送炭調節を一層強化する目的で1932(昭和7)年末に昭和石炭株式会社を設立するに至る.しかし,大正末から昭和初期の不況を通して,各炭坑では合理化が実施され,とくに,坑内における採炭運搬機械,坑外の選炭設備に著しい進歩がみられた.また,昭和初期においてようやく,納屋制度が大手筋炭坑から一応姿を消していく.昭和6年に勃発した満州事変に伴う軍需景気で長い不況期を脱し,次第に上昇を開始する.しかし1937(昭和12)年の日中戦争,さらには太平洋戦争への突入により,日本石炭礦業は国家の要請により戦争経済の中枢に置かれ,戦争の進行と共にそれはやがて壊滅的な打撃を受ける.
石炭生産量は昭和6年の2,800万トンを底に逐年上昇,同11年には約4,200万トン,同15年には5,600万トンと最高の生産実績を示した.日中戦争を契機に次第に統制強化がなされ,国家総動員法,重要鉱物増産法を始め,戦時的色彩の濃い立法が相次いで公布・施行された.
昭和13年9月には「石炭配給統制規則」,同15年4月には「石炭配給統制法」が公布され,これに基づく配給機関として日本石炭株式会社が設立された.その後,同16年には重要産業団体令に基づく石炭統制会が設立され,一段と石炭統制が強化されてくる.しかし,戦況の悪化は生産・資材・労務・輸送・その他あらゆる面で行詰りの様相をみせ,戦争経済の崩壊の過程で相次ぐ増産運動にもかかわらず,石炭の生産力を次第に低下させていった.
労働構成の面でも大きな変化があった.元来,炭坑夫の供給源は農村地帯からであったが,軍隊の応召,軍需工場への転出により炭坑夫の募集を一層困難にした.また,熟練坑夫の応召ないし転出により,1939(昭和14)年頃より,未熟練労働者として朝鮮人労働者,女子および未成年労働者,あるいは勤労報国隊の急激な増加となった.戦時末期には,俘虜,中国人労働者まで動員された.このような状況,加えて機械設備と資材の行詰りは,労働の強化,出炭能率の低下,事故の増大を招き,日本石炭礦業を疲弊させていった.
なお,注目すべきことは,戦時期の昭和14年3月,明治期以降,鉱業地域住民にとって懸案であった鉱害賠償規定(無過失損害賠償責任)が設けられ,鉱害問題の解決にようやく一歩を進めた.
「全国石炭関係」欄は『本邦鉱業ノ趨勢』(480)がやはり大きな柱となっており,それに『石炭時報』(254),『日満支石炭時報』(369),『石炭統制会報』(261),『石炭大観』(258)が主な資料である.石炭鉱業聯合会関係では,前代に引続いて『石炭鉱業聯合会理事会書類』(251)の決議事項を収録している.同資料中における各炭坑の生産実績,労務構成,なかでも朝鮮人労働者に関する労務管理については注目すべきであろう.収録数は少ないが,『九州石炭鉱業懇話会関係(綴)』(109)は貴重な資料である.日本鉱山協会刊行の資料からも若干収録したが,重要な資料を幾つも見落してしまった.戦時期の資料で頻度の高いものは『石炭国家統制史』(253),『石炭鉱業の展望』(623),『日満支石炭時報』(369),『石炭統制会報』(261)それに『朝日新聞(東京版)』(8)である.
明治期以降,多くの事項を収録してきた『三池鉱業所沿革史』(508)をはじめとする三井三池に関する稿本類は1939・1940(昭和14・15)年までで姿を消す.
『昭和石炭株式会社協議員会協議事項』,『物資動員史料』については,所在を知りながらも探録しえなかった.
労働政策,労働運動関係では,『日本労働年鑑』(397),『社会政策時報』(212),『労働時報』(566)が主なところで,『社会運動の状況』(769)は編纂を終えた段階で復刻がなされたが,充分な消化をなしえず,一部分のみ参照した程度である.炭坑災害については『重大災害事変誌』(218),『鉱山保安年報』(155)に依拠している.
この期における「筑豊石炭関係」欄では,二つの大きな特色がある.第1は,九州大学産業労働研究所所蔵の昭和前半期における筑豊・北九州を中心とした労働運動関係資料である.例えば,『九州無産運動年鑑』(122),『九州労働新聞』(123),『反動団体関係書類(綴)』(770),『思想関係(綴)』(771),『筑豊炭田争議諸資料』(324)をはじめとする諸資料はこの期における本年表の白眉となっている.第2は,戦時期における資料の特色である.『石炭鉱業聯合会理事会書類』(251)については,先に述べたが,『豊国炭坑給与関係書類』(774)をはじめとする明治鉱業関係の資料,中国人・俘虜および朝鮮人・勤労報国隊に関する旧三井山野,旧三井三池両鉱業所の資料,『古河西部』(747),『古河大峰』(748)等々はこの期間における内容をより一層充実させている.
逐次刊行物についてはかなりの変化がみられる.明治37年より発刊されてきた『筑豊石炭鉱業組合(会)月報』は昭和16年12月で廃刊される.昭和5年9月,中小炭坑主によって「筑豊石炭鉱業互助会」が結成され,大手筋を中心とする「筑豊石炭鉱業組合(会)」と袂を分つことになる.送炭制限問題,撫順炭輸入阻止,電力料金値下要求に特異な行動を展開した.同会の機関誌『石炭鉱業互助会報』(249)は昭和11年の発刊から昭和16年12月まで,中小炭坑の動向をよく伝えている.その後,同誌は『北九州石炭時報』(578)と改題される.新聞では『福岡日日新聞』(453),『九州日報』(630)が昭和17年8月10日合併統合され,新たに『西日本新聞』(367)が登場し,また『門司新報』(542)は昭和12年までで姿を消す.戦時の短かい期間であるが,『日本鉱業新聞』(693)が特色ある記事を掲載している.
「地城社会」欄における『県公報』(780)は主に戦時期のみ収録した.