戦時日本経済の崩壊と混乱からの脱却および戦後日本の復興計画が実施されていく過程で石炭礦業はその中枢に置かれた.この期間における主要な点を述べると以下のとおりである.
まず,戦時期からの石炭統制は引続き戦後も日本石炭鉱業会,あるいは配炭公団によって継承され,G.H.Q.の指導の下で強力に石炭増産政策がすすめられた.日本経済の復興の基本方針として,昭和21年12月末石炭・鉄鋼を中心とする傾斜生産方式が決定され,更に同23年4月,「臨時石炭鉱業管理法」が施行された.また,石炭増産実施にあたり,主食をはじめとする食料品,生活必需品,炭礦労務者用住宅等が特別に配慮された.他方,戦前の抑圧された状況から一挙に解放された炭礦労働者は,終戦直後より各労働組合を組織し,激しい労働運動を全国的に展開するが,他方21年春頃より,労使協調の救国石炭増産運動,祖国復興石炭増産運動が主唱され徐々に出炭量を増大させていった.すなわち,昭和20年度は2,200万トンまで低下し石炭飢饉が叫ばれたが,同23年度には3,400万トンまで回復した.ただ,石炭増産という至上命令のため戦時期同様,人海戦術によってこれを達した.このため,同23年末,炭礦労働者は46万8千人にも達し,加えて資材の入手難とそれに伴う設備改善の不備,熟練労働者の不足は必然的に災害の上昇を招いた.このような中で昭和24年5月,「鉱山保安法」が公布されるに至る.その後,経済九原則,ドッヂ・ラインをはじめとする経済安定化政策により,それまでの増産第一主義から石炭礦業の安定化へと政策が転換され,賃金,出炭能率,労働時間をはじめあらゆる面でG.H.Q.は合理化を要請した.政府は,G.H.Q.の覚書にもとづき,昭和24年9月配炭公団,次いで翌25年5月炭鉱国管,同年7月石炭配給割当制の全面的廃止を実施しここに戦前から引続き行なってきた石炭統制に終止符を打った.
石炭統制撤廃直後,石炭礦業界は配炭公団の未曽有の貯炭をかかえ,さらにドッヂ・ラインによる不況で前途多難の様相であった.しかし,1951(昭和26)年6月,朝鮮動乱が勃発するや,いわゆる特需景気が起りさらに昭和26年の異常渇水による火力発電用炭の需要増加と相まって,一挙に劣勢を挽回し同26年度出炭量は4,600万トンにも達した.
ところで,この好況は炭礦の合理化を中途半端なものとし,その後における朝鮮動乱景気の下火,昭和27年秋の炭労の長期ストと重油の進出は,日本石炭礦業の崩壊の前兆であった.戦後日本経済復興の旗手としてだけでなく,明治,大正,昭和の3代にわたって日本の経済社会の基幹産業部門として最も重要な役割を演じてきた石炭礦業は,同27年秋の炭労の長期ストライキに伴う重油の進出をもって使命を終えていくことになる.この期間における「全国石炭関係」欄の主要な資料は次のとおりである.
労使関係,労働運動の資料については『資料労働運動史』(209),『石炭労働年鑑』(266),『九州炭鉱十年史』(115),『九州炭礦労働組合運動史』(116),『炭労十年史』(315),『みいけ十年』(498)が主なところで,『資料北海道労働運動史』(474)についても若干収録した.この中で,『資料労働運動史』(209)が,「全国石炭関係」,「筑豊石炭関係」欄とも最も大きな比重を占めている.本資料は重要な資料に相違ないが,今後,原資料との精緻な比較・検討を必要とするであろう.
戦後における炭礦労働運動は激しい闘争の繰り返しで他の産業労働者へも多大な影響を与えた.資料も炭労,全炭鉱の本部と各支部,あるいは各地の労働委員会をはじめ厖大な量にのぼる労働運動のそれを知り得たが能力をはるかに越えたものであるため収録しえなかった.
逐次刊行物については戦前と比べて新らしい資料が登場し様相を異にしている.
主なところでは『会報』(73),『情報』(226),『石炭評論』(265),『石炭時報』(255),『石炭情報』(256)『鉱山保安年報』(155),『西日本石炭通信』(259),『石炭年鑑』(264)である.『本邦鉱業ノ趨勢』(480)は,戦前版と戦後版においては記述内容が異なっており,後者においては統計的な記述が主となっており各々の事項の記述が簡略化され内容も包括的となっている.このため便宜的に『本邦鉱業の趨勢50年史』(481)を参照したにすぎない.戦後版は収録しなかったが,毎年の鉱業の趨勢でも記述すべきであったと思う.
「筑豊石炭関係」欄の資料も「全国石炭関係」欄に対応して労使関係,労働運動関係が豊富となっている.主なところでは,先の『九州炭礦労働組合運動史』(116),『九州炭鉱十年史』(115)をはじめ『炭鉱経営資料』(307),『日炭高松組合十年史』(371),『おおのうら十年史』(46),『福岡地方労働委員会三年誌』(452)である.炭礦労働運動資料についてはすでに指摘したように,厖大な量が散在しており,筑豊においても宮崎太郎氏蒐集資料,貝島大之浦,三鉱連(三井)をはじめとする各組合の資料の量に驚倒せざるをえない.これらの資料保存,整理がまず今後における研究の課題であろう.このほか,この期間における主な資料では『九州石炭旬報』(113),『石炭統計月報』(262)『九州石炭鉱業小史』(110),『買収補償社有田』(408)がある.技術関係では『九州炭礦技術連盟会誌』(792)を参照した.
企業社史では『日鉄二瀬六十年史』(372),『志免鉱業所十年史』(203),『山史-三菱鉱業方城鉱業所-』(188),『三菱飯塚炭礦史』(509),『貝島会社年表草案』(68),『嘉穂炭鉱史』(87),『社史-明治鉱業株式会社-』(214)を参照した.
新聞は「地域社会」欄を含めて主に『西日本新聞』(367)から収録したが,戦後初期における『夕刊フクニチ』(554)の鉱山版は当時の炭礦社会の様相を克明に伝えている.
福岡県の鉱業行政関係については,『詳説福岡県議会史』(223)を参照した程度で,『県公報』(780)をはじめ重要な資料を見落してしまった.日本石炭協会,九州石炭鉱業聯盟,福岡県鉱害課,および石炭鉱業審議会の各資料については所在を知りえたが日時が浅いため収録を差し控えた.このほか,戦後における石炭礦業の再編成過程で,租鉱権炭礦,斤先掘の役割はきわめて重要であったが,これに関係する本格的な資料の所在については未だ調査不十分である.