10 1953~1968(昭和28~43)年

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 朝鮮動乱ブームの反動による一般的な景気の後退,なかでも石炭の不況は著しく,1953~54(昭和28~29)年,休・廃礦が相次ぎ労働者の大量解雇も断行され,昭和28年3月末から同30年春までに約9万人の離職者を出した.また,三鉱連(三井)の113日の闘いに象徴される企業整備反対ストライキも激化した.単なる石炭不況ではなく,すでに日本石炭礦業は構造的な危機を迎えており,昭和30年以降,衰退・崩壊を辿っていくことになる.
 政策的にはエネルギー全般にわたる認識不足と過去における石炭礦業の栄光を払拭しきれず試行錯誤を繰り返していく.1955(昭和30)年,石炭不況を憂慮した政府は,「石炭鉱業合理化臨時措置法」と「重油ボイラー設置制限等に関する臨時措置法」の制定,「石炭鉱業整備事業団」の設立などの措置を講じ,炭主油従政策を明確に打出した.いわゆる神武景気の好況に刺激され,石炭礦業は一転して活況を呈し,昭和32年に策定された新長期経済計画では同50年の石炭生産量を7,200万トンとした.しかし,これはあくまで一時的な現象で,昭和33年のいわゆるナベ底景気以降,日本石炭礦業は本格的な危機に直面し,その後日本の経済が急速な成長を遂げていく中で雪崩のごとく崩壊していった.他方で,技術革新にともなうエネルギー革命が進行し石油の消費量が増大していく.
 この間「炭鉱離職者臨時措置法」(昭和34年),「炭鉱離職者援護会」(同34年,後の雇用促進事業団)の発足,石油関税の引上げ(同35年)をはじめとする措置がとられるが,エネルギー革命の波には打勝てず石炭危機はますます深刻化を増していった.昭和35年の所得倍増計画以降における高度成長下での石油の果す役割は決定的となり,石油の輸入自由化を契機に油主炭従の政策へと転換され,その後石油は昭和43年度において,日本における総エネルギー供給量の3分の2を占めるに至るまで激増する.昭和37年,「石炭対策大綱」(第1次答申)が発表され,いわゆるスクラップ・アンド・ビルド方式の下で石炭礦業の死闘が繰りひろげられた.そして,この過程で,日本石炭礦業に内在し続けてきた諸矛盾--生産・技術・労働・保安--が一挙に露呈されてくる.他方,厳しい合理化の過程で,坑内外に最新の機械を導入する炭礦も幾つかあらわれるが,ときすでに遅くこのような炭礦でさえ閉山を余儀なくされた.
 昭和36年7月,雇用促進事業団の設立,同年11月炭礦離職者による地域社会の荒廃を防ぐ目的で「産炭地域振興臨時措置法」が制定された.しかし,この頃になると日本石炭礦業の崩壊は決定的で,まず老朽化した筑豊,次いで北松,北海道とかつての名山が次々とヤマの灯を消していき,産炭地域の荒廃は新たに社会問題として人々の関心を集めるに至る.
 こうして,第1次石炭答申(昭和37年)以降,第2次(同39年),第3次(同41年),第4次(同43年)と改訂される間に,かつて,5,000万トンを超える生産量をあげ,50万人に迫る炭礦労働者を擁した日本石炭礦業は,昭和43年度において出炭量4,600万トン(稼働炭礦142,常用労務者7万6,000人),昭和45年度,3,800万トン(稼働炭礦96,常用労務者4万8,000人)と激減し,同48年3月の発表では,47年度の出炭量2,700万トン(稼働炭礦57,常用労務者2万9,000人)である.日本石炭礦業の崩壊がいかにドラスティックであったか,単なるこの数字からも察せられよう.
 この期間における「全国石炭関係」欄の主な資料は以下のとおりである.労使関係では『資料労働運動史』(209),『炭礦労働時報』(312),『石炭労働年鑑』(266)が柱をなしており,三井三池の争議については『資料三池争議』(208),『みいけ二十年』(838)を使用した.この期間の最大の特色は『石炭鉱山整理促進交付金実績資料』(59),『団史-整備篇-』(313)をはじめとする閉山過程の資料である.閉山にともなう炭礦離職者の実情については各事業団の資料が最適と思われるが,閲覧の機会がなくわずかに『炭鉱離職者対策十年史』(648),『失業対策事業二十年史』(199)を参照したにすぎない.このほかの主な資料は『石炭年鑑』(264),『石炭時報』(255),『石炭・コークス統計年報』(252),『石炭鉱害復旧史』(248)である.
 「筑豊石炭関係」欄の主な資料は先の『石炭鉱山整理促進交付金実績資料』(59)をはじめ,『九州石炭鉱業二十年の歩み』(111),『産炭地振興』(189),『炭礦経営資料』(307)である.技術・保安関係では『鉱山保安年報』(155),『鉱山保安要覧』(156),『九州石炭技術連盟会誌』(792),『技術研究会誌』(793)を参照した.『全国鉱業市町村連合会資料』(740)については一部を使用したにすぎない.日本石炭鉱業連合会,筑豊文庫,九州経済調査協会,また組夫,請負夫に関する資料については留意しながらも見すごしてしまった.「地域社会」欄については,『西日本新聞』(367),『郷土田川』(126),『年鑑田川』(399)から多くの事項を採録した.この期間のみならず,戦後期の資料はすでに指摘したように,多方面にわたって散在しており,戦後期の全貌を明らかにしていくうえで,まずこれら資料の保存,整理が急務であることを強調しておきたい.