Ⅴ 反省と今後の課題

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 年表の編纂は歴史的事実を適切に評価し,正確に表現しなければならない使命を帯びている.編纂の過程で,この点には常に留意してきたことであるが,刷りあがった年表を手にすると,今更のように事実の重みと活字の恐ろしさを意識せざるを得ないのである.この意味で編纂過程での反省を若干指摘し,今後の参考としたい.
 まず,厖大な資料に接しながらも,時間的な制約から厳密な資料批判と,充分な採録ができなかったことである.裏をかえせば,どれほど事実を正確に伝え得たか,畏れと不安を覚える.満6ヵ年に近い歳月は長いようで,あまりにも短期間であった.今にして思えば年表を編纂するには期間の配慮とともに,たんなる年表作成の作業だけでなく、研究会をふまえて厳密な資料批判,データの正否,事実の軽重の判断,典拠資料の適否を研究・討論しつつ,各時代ごとの特徴を把握しながら作業を推し進めていくべきであった.編纂の後期段階では多少とも研究会を積み重ねてゆく方式をとったが,これは早くから開始すべきであったとおもう.
 次に,当初における石炭礦業史への認識の甘さが最終段階まで影響をおよぼしたことである.編纂当初,本年表の型は一方では田川市郡の地方史を軸とし,他方では石炭関係事項に限って筑豊まで枠を拡げていく2欄方式であった.前述のように途中から4欄方式を採用したが,視野の拡大と共に,さらに欄を増すべき必要に迫られ,そのことを真剣に考慮・討議し,新しい試みを計画した時期もあったが,結局は在来の年表の形式を踏襲し,印刷上の制約から便宜的な分類によらざるを得なかったのである.そのため,「全国石炭関係」についても1欄では雑多なものになりすぎ,筑豊石炭関係の「生産・流通」と「企業・労働・災害」両欄の区分も理論的につきつめなかったため--2欄ではつきつめ得ないためという方が正しいかも知れない--その区分が曖昧で,時代によっては混乱をおこしがちであった.また「地域社会」欄は,当初の田川地方を中心とする筑豊地域の地方史一般の方針を払拭し得なかったようである.たんなる地方史一般ではなく,筑豊・北九州鉱工業地帯の市町村において石炭礦業と必然的連関をもつ行財政・産業・交通・金融・教育・医療衛生・文化等々の面にもっと力を注ぐべきであったとおもう.
 ことに本年表を編纂するにあたり,「筑豊とは何か」と問う姿勢は委員一同にあった筈である.一口に筑豊といっても幅は広く,遠賀川流域に発展した筑豊炭田の特質を把握することは,一見容易なようで決してそうではない.筑豊地域社会の土俗性を解明するには,筑豊内の一,二の地区社会からの視点だけでなく,筑豊全体からの展望が必要で,この点では筑豊内の諸地区の人々に,もっと広く協力を要請すべきではなかったかと反省もさせられる.同時に筑豊地域研究における組織の限界や組織拡大の困難も痛切に感じるのである.
 また,筑豊の土俗性や地域社会の特色を知る一つの鍵として,中小炭坑の実態を把握することを常に意識しながら,結局なし得ず,明治中期以降における石炭礦業の各事項の記載は結果的に大手筋炭礦のものとなってしまった.というのも,大手筋の資料の発掘・採録に主力を注ぎ,中小炭坑の資料の重要性には気づきながらも,その余裕がなかったからである.出炭量の側面から見ると,一握の財閥系乃至地方大手の炭礦が圧倒的な比重を占めていたが,炭礦数・炭礦労働者の側面では簇出した中小炭坑の実態を忘れてはならない.この点に及び得なかったことは,やむを得なかったとはいえ心残りである.
 さらに法令・行財政・統計・金融・炭礦医療衛生・石炭技術・炭礦文化等々の重要性を意識しながらも,きわめて不充分にしか及び得なかったこと,とくにこれらの面では,それぞれの専門家の参加を求め,学際的研究を展開することの重要性に今更のように気付くのである.その点では長年にわたり炭礦の実務に携わってきた人々についても同じことがいえ,その経験・知識は実に貴重であり,産業史の年表にはかかる人々の参加が絶対必要であったにかかわらず,われわれの組織には一,二の人々しか包摂し得なかったことも,組織上の問題として反省させられるのである.それは決して人が無かったのではなく,一つには小刻みに期間を延長していったために,相当の期間的余裕をもって参加を要請することが出来なかったからでもある.
 このほか,新聞記事の取扱い方について,新聞の資料的意義と限界を充分認識して,もっと有効適切な採録を考うべきであったし,造型資料〔鳥居・記念碑・墓碑・絵馬等〕からの採録をほとんどなさなかったこと,あるいは典拠資料を番号形式にしたため,校正上のミスからくる混乱を招いていること,さらには異なる資料にもとづく異なる事実認識をば「異説」として註記した個所もあるが,全面的にはなし得なかったこと,これらの諸点も謙虚に反省すべきであろう.
 以上,種々の問題点はあるが,一応数ヵ年にわたる「民学協同」の成果として,この『筑豊石炭礦業史年表』を世に送り出すことができるのは,まことに喜ばしいことである.もちろん,この年表をもって完璧なものを完成し得たなどとは,編纂委員誰一人思っていない.この年表によって多少とも筑豊石炭礦業の歴史を概観し得る一種の見取図を作成し,今後の研究のための「叩き台」を作り得たかも知れないが,精密・確実・適切な年表を作成することは,なお今後に残された大きな課題であろう.真実をつきつめ,事実の軽重を評価し,筑豊地域内の各地区の事象を適切に配列し得たか,否か.思えば,なし得なかったことは余りにも多い.筑豊石炭礦業さらには全国石炭礦業の歴史の大きさ・広さ・根深さに比べると,われわれがこの数年間になし得たことは余りにも小さく,能力には限界があった.たしかに編纂委員ひとりびとりは能う限りの力を尽し,それはまことに烈しく,きびしいものであった.そのこと自体は高く評価しなければならないが,同時に学問の道がいかにはるけく,遠いものであるかを,今度ほど痛切に味わったことはないのである.
 したがって,われわれは今後10年,20年……かけて,一歩ずつこの年表の補正を続けてゆかねばならない.本年表の成果をゴールと見るか,スタートラインと見るかによって,自ら今後この年表に対処する道も定まってくる.願わくば,識者の厳正な御批判・御教示を得て,少しでも真実に近づきたいと願うものである.
 しかも,ことは単に年表の補正に限られてはならない.何よりも石炭礦業史の資料の発掘と調査・整理・保存は今日の急務であり,全国的に如何なる資料が存在しているのか--その数は厖大な量にのぼるであろうが,全国的な協力組織をもって調査しなければならない.われわれもそれぞれの持場で,能う限り資料の発掘と保存に努め,資料目録の作成や史料集の編纂に努めたいとおもう.全国各地においても,石炭礦業という観点から,それぞれの地域の資料を見直して下さるよう切に望むものである.おそらく倉の埃にまみれ,書庫の隅,書架の端に眠っている石炭資料は相当数にのぼると思われる.また資料の表題に即して従来石炭以外の研究には利用されてきたが,視点を変えれば石炭礦業のためにも重要な資料であることを発見されるものも多いであろう.
 また年表の補正はもちろんのこと,今後の筑豊石炭礦業史研究のためには,何よりもその基礎に地道な研究の蓄積がなければならない.今日まで石炭礦業の歴史に関して原資料にもとづく研究はきわて少なく,二次的,三次的資料による研究か,さもなくば余りにも心情的・感覚的な叙述が多かったのではあるまいか.厖大な原資料にもかかわらず,解明された問題は余りにも少ない.今後は,たとえ当面の対象は小さく,地域は限定されようとも,広い視野のもとに一歩ずつ解明して,基礎的研究を蓄積してゆくよりほかはない.われわれは年表の一応の完成をもって小成に安んじることなく,今こそ石炭礦業史を基礎から学び直す覚悟を新たにしなければならない.そして,何よりも若い世代の人々が石炭礦業史,さらには広くエネルギー産業史に関心を向け,この年表を批判的に継承・発展させると共に,研究を高度に展開させてくれるよう切に希望する.
 この年表もはじめは産炭地域の人々が地域の将来の展望を歴史の中に探ろうとした素朴な情熱によって点火され,それに研究者が呼応して広く燃えさかっていったものであった.歴史はたんなる懐古や骨董趣味ではなく,明日への生き方を教える.明日の筑豊,将来の日本を考え,今後のエネルギー問題を展望するためには,衒学的な理論の空転や,無責任な政策論議やウェットな感情論ではなく,歴史の事実を踏まえ,自らに問い,他と語り,着実な思考と応答がなされねばならない.この年表がそのために少しでも役立ち,石炭が筑豊にとって,さらには日本の近・現代にとって何であったのか,日本の近・現代産業社会の深奥部に何がひそむのかを語り,筑豊の地底に眠る幾万,幾十万の人々への鎮魂歌ともなれば,編纂者一同の喜び,これにすぎるものはない.