長野 覚
江戸時代の「町村」は、行政的な組織と生活共同体的な機能が合体した、地縁的集団であった。たとえば町とは、農家を交じえない商職人の集落であり、当時は農業人口が圧倒的であったから、町の人口は村の人口よりも少いのが通例であった。本表の明治21年以前の町村は、まだそのような性格を残したものが多かった。村の数も、近世以降の盛んな新田開発などによって、新しい村々が誕生し、明治初期まで町村数は増加の一途をたどった。
明治4年(1871)7月、廃藩置県の詔書に次いで、5年には壬申戸籍が作られたが、同年4月大政官布告による「大小区制」が実施されることになった。当時の小倉県(本表の企救郡・田川郡)では、まず区制をしき、翌6年から福岡県(旧筑前)とともに大小区制の実施となった。しかし従来の地縁的な町村と異るこの制度は、実情に即しないことが多く、再三編成替や大小区番地の変更がなされた(この全容を表現することは極めて困難であったので、本表では制定当初の状態を示した)。結局11年7月には、町村制の復活を意味する「郡区町村編成法」が公布された。こうして明治22年(1889)公布の「市制・町村制」に向って既存の町村は統合・再編成され始めた。明治20年頃には、それ以前に全国で7万以上を数えた町村が、15,820町村になっており、福岡県内でも明治21年(1888)12月末当時、1,958力町村が、翌22年4月
第2次大戦後の昭和28年(1953)10月1日に施行された「町村合併促進法」は、地方自治の確立を目標とする民主政治の展開と、行政能率
以上のような市町村の変遷を、年表の主体をなす筑豊5市4郡および、関連の深い北九州市についてグラフ式年表にしたものである。したがって、必要な年次における行政区分が容易に見出せるように作製した。
「地図1」は、明治22年(1889)の市制・町村制施行前の町村位置を示し、次にそれらの町村が、どのように統合されたかを、明治45年(1912)当時の市町村号を示すことで明らかにした。それに現在の行政区を記入したものである。この「地図1」と「市町村・人口変遷一覧表」を比較することにより、現在の各市町村が、いつ頃、地域的にどのように総合されていったかがわかる。
「地図2」は。筑豊炭田の最盛期である第2次大戦直前の状態を(昭和15年の出炭量2千万t)、炭鉱分布に主体を置いて再現したものである。行政区は昭和15年と現在を示した。炭坑分布については、当時、北九州五市や遠賀郡一帯が要塞地帯となっていたため、明示されてない地図があり、数種類の地図を総合して炭坑分布の状態を示したものである。
【市町村変遷一覧表および地図作製に用いた資料】
福岡県市町村合併史:福岡県・昭37.3.31
福岡県史料叢書:福岡県史料編纂所・昭和23~24
国勢調査報告
九州主要産業地図:東亜興業社・昭15年
筑豊炭田全図:筑豊石炭鉱業会・昭10年
管内鉱山分布図:福岡鉱山監督局・昭15年