筑豊三億六千万年の生い立ち ゾウが歩いていた田川

44 ~ 48

【関連地域】田川市 香春町 添田町 糸田町 川崎町 大任町 赤村 福智町

 大地の生い立ちの話をする時、数万年とか数百万年、数億年前の話ともなると、なかなか一般の方々には時間構成が難しく、ピンとこないことが多いようです。

 日本史であれば「あぁ、大体あの頃のことか」とおよその察しは付きます。

 本項ではこの地方に残っている地層、岩石や化石から、筑豊の大地の歴史をできるだけやさしく、解説してみたいと思います。

 地球は四十五億年余の年齢をもつと言われます。筑豊にはその最後の三億六千万年がそれらを証拠として断片的に残っています。

 それより前では、貞観三(八六一)年に須賀神社に落下した直方隕石が太陽系創成期の例外的な岩石証拠です。

 切りが良いので一年をこの長さとして第一表にまとめました。一日が百万年です。

第1表 筑豊3.6億年の地史


海の時代

 飯塚北西~船尾山~金国山~香春岳~福智山~ます渕ダム地域の山々をつくっている岩石がこの時代にできたものです。三億年前後の年齢をもち、筑豊一年史では正月から四月です。

 太洋でできた各種の地層からなりますが、いろいろの場所で堆積しました。サンゴ礁がある南洋の浅い海で堆積したものが船尾山や関ノ山、香春岳、平尾台などの石灰岩です。

 その他のものは大陸周縁の海の地層であったり、遠洋深海底の地層や海底火山、火山島の熔岩などです。

 これらの地層はプレート運動によって大陸の縁辺に移動、付加し、複雑に混在した構造を示しており、研究は容易ではありません。

 また、ずっと後の時代(大陸の時代)に花崗岩マグマによる熱変成作用を全体に受け、化石は消失しています。あまりに複雑なため、ひとまとめにして呼野層群と呼ばれてもいますが、賛意を表しかねます。

 これらの地層群の一部がプレート運動によって地殻の深部(10~30km)へ引きずり込まれ、高圧を受けて変成しました。これらの変成岩が現在地表に露れているところが古処山~嘉穂・田川・添田の南方~障子ヶ岳~苅田などです。泥質片岩を主とし、砂質片岩、緑色片岩、石灰質片岩を伴います。

 犬鳴山~篠栗~八木山~龍王山地域にも変成岩が分布しています。この地域の変成岩は前記の古処山などに比べると変成年代がずっと古く、三億数千万年前を示します。

 緑色片岩、滑石片岩、角閃岩、変斑糲岩、蛇紋岩などを特徴としています。やさしく言えば、第一表の初め頃にプレート運動によって沈み込み、高圧を受けて変成した古い地層群と海洋プレートの一部と言えます。

 海の時代と言っても、学者以外には想像も難しい茫漠とした頃でしかありません。

大陸の時代

 海の時代にできた地層群がプレート運動によって集まり、大陸の縁辺に付加します。二億数千万年前のことで、大陸時代の始まりです。地層の一部は地殻深部へ引きずり込まれ、変成岩へと変わっていきます(前述)。

 地表では大きな隆起が起こり、これを秋吉褶曲山脈(古期日本とも)と呼びます。山口県地方では山脈の麓に三角州~内湾成の大嶺炭田などの地層ができます。筑豊一年史では五月です。良質の無煙炭の産地でした。

 大陸化が進むにつれ、入り江や内湾状の穏やかな海が広がった時期もあります。アンモナイト化石で有名な下関市豊浦地方のジュラ紀の地層です。恐らく筑豊にも同じような環境があったことでしょうが、残念ながら侵食されつくし、当時の様子は分かりません。

 これらの地層は日本海を隔てたウラジオストック地方にも広がっており、古地理を考える良い資料です。後述しますが、日本海が無かった、両地域が近接していた状況を想像すると、しっくりと受け入れられます。

 大陸時代の後半に入る頃、今の福岡県から山口県にかけて大きな沈降地帯が生まれました。この沈降地を脇野盆地(脇野湖とも)と呼びます。大陸の内から流れ出る大河の下流域であったという説があります。直方の六ヶ岳、宮若の笠置山や千石峡、靡山などに地層が残り、韓国南部にも似た地層があります。

 初期には厚さ千mに達する河や湖の地層が堆積します。淡水生の貝や魚、恐竜などの化石が発見されています。次第に火山活動が激しくなり、後期には厚さ二千mに近い火山灰や熔岩等が堆積し、脇野盆地は消滅します。

 これにやや遅れて中国地方から西九州へかけて、広域に大量の花崗岩質のマグマ活動が始まります(第一図)。地殻深部から大量のマグマが次々に上昇し、花崗岩をつくりました。地下十数キロの深さでの出来事です。

第1図 白亜紀(9月頃)の花崗岩類貫入分布

緑色:中・古生代の岩層(青色:石灰岩層)  紅色:花崗岩類

当時の地下十数キロをいわば〝透視〟した図。後の地殻変動による水平変位が加味、考慮されています。


 その頃、同じくらいの深さに埋もれていた香春岳石灰岩では、このマグマがもたらした超高圧熱水と石灰岩との間で化学反応が起こります。その結果、接触交代鉱床と呼ばれる銅や鉄、鉛、亜鉛、タングステン、モリブデン、ビスマス、金などを含む多種多様な有用鉱物の集まり(鉱床)が石灰岩中やその周辺にできました。

 田川の磁石山や近くの竜田、大和、金平などがこのような例です。三ノ岳では銅を求めて古く奈良時代から沢山の鉱山(間歩)が開発され、近世以降では宗旦、床屋、水晶、横鶴、ズリネなどが知られています。

 この頃、地表では激烈な火山活動が続きます。山口県では阿蘇カルデラ級の巨大火山がいくつも噴火した跡が地質に残っています。厚さ千mから二千mを超える火砕流堆積物が広く地表を覆ったようです。

 北九州では八幡の南方にごく狭い分布が残っているにすぎませんが、筑豊でも同じようにすさまじい火山活動があったであろうことは疑えません。一年史ではもう初秋です。

 この火山活動が終わると、激しい侵食の時代に入ったようです。六、七千万年前のことです。恐竜絶滅ドラマの前後です。

 筑豊では恐竜絶滅後、石炭をもつ地層が堆積する時代へと入りますが、これらの地層は上述した花崗岩類を直接に覆って堆積しています。つまりこの時代には、その三、四千万年前には地下十数キロにあった花崗岩類が既に地表に露出していたと分かります。

【湾入の時代】

 筑豊炭田をつくる地層の堆積が約五千万年前に始まります。筑豊一年史では十一月十日頃です。最初は天草、大牟田方面から入ってきた入り江(古有明湾入)に始まり、山口県の宇部炭田まで続いていたようです。

 東峰の宝珠山炭鉱や、先年ダムに沈んだ犀川の伊良原炭鉱がその名残です。この湾入が退くと、次には北~北西方の海から別の湾入があったと考えられています。

第2図 炭田の分布(現在)

緑色:中・古生代の岩層(青色:石灰岩層)  紅色:白亜紀の花崗岩類

黄色:古第三紀層(炭田)


 高さ二、三十mもある巨木が林立した三角州や沼地の地層が二千m以上も堆積しました(第三図)。地層の中からは一部で大陸由来の硬い石英質の円礫(岩種は正珪岩)が沢山見つかります。これも古地理を考える上で重要です。後期には穏やかな浅い海へと変わり、石炭堆積の優勢な時代は終わります。

第3図 筑豊炭田の地質断面図

緑色:中・古生代の岩層  赤色:白亜紀の花崗岩類  茶色:石炭をもつ古第三紀の地層

黄色:浅い海の古第三紀の地層  青色:現在の遠賀川による地層

地盤の東側が大きく沈む地殻変動が約2,000万年にわたって続き、それにつれて筑豊炭田の地層が堆積しました。


 

 大陸時代の終盤、海は退き、中国地方から西九州の地形は広範に低平化が進み、準平原と呼ばれる地形へと変容したようです。

列島の時代へ

 準平原の時代に入ってしばらく経ち、大陸の縁辺が割れて広がり始め、列島化が始まります。日本海の誕生です。十二月中旬です。

 下旬に入ると、隆起~侵食~古直方平野誕生、幾つもの小火山、阿蘇カルデラの巨大噴火、と地質イベントが続きます(第二表)。

第2表 直方平野2,500万年の地史


【古直方平野の時代】

 列島化の始まりと共に、北部九州は中国地方と共に広域に隆起を始め、今の地形へとつながってきます。隆起につれて侵食作用が進み、直方平野の原型(古直方平野)とそれを取り巻く、未だそう高くない山々が生まれてきます。クリスマスの頃です。そう硬くない筑豊炭田の地層が侵食に拍車をかけました。

 筑豊で地形の低平化が進んでいる頃、添田以南では緑色凝灰岩活動と呼ぶ激しい火山活動が広範囲に起こりました。別府- 島原地溝帯の形成と関連付けられています。恐らくこの頃が、石炭を局所的に無煙炭(煽石)化させた火成岩(ドン)の貫入期と推定できますが、詳しくは分かっていません。続いて、英彦山や大日ヶ岳などの安山岩質の火山が生まれます。

 一方、古直方平野では玄武岩質の火山の噴火が始まります。嘉麻の琴平山や水巻の明神ヶ辻山、直方の剣岳などです(第四図)。他にも玄界灘沿岸部に福岡・唐津方面まで数多く噴火しています。最後に噴火したのは下関の六連島で、百三十万年前、師走の三十日午後四時半のことです。

第4図 鮮新世~更新世前期(12月27~30日)の火山分布

黄色:安山岩の火山  赤色:玄武岩の火山

低地部での火山分布から、この時代にはすでに現在の地形に近いものがあったと分かります。 (山の高さは3倍に強調)


 大晦日に入ると同時に、玖珠南東で巨大火砕流噴火が起こり、深耶馬渓などの元となりました。この火砕流は英彦山の高まりを乗り越えられず、筑豊までは達しませんでした。こうして大晦日の夕方、現在の直方平野がほぼ完成します。

【直方平野の時代】

 ナウマンゾウが田川を歩いていたのはこの頃です。臼歯の化石が見つかったのは糸田の泌泉付近です。平尾台でもナウマンゾウが歩いていた証拠が化石に見つかっています。泌泉は平野の真ん中で地下から豊富な地下水が湧いています。西方の関ノ山や船尾山をつくる石灰岩中の地下水が地下深くを通って湧き上がっていると考えられていますが、詳しくは研究されていません。

 約九万年前(大晦日午後九時四十五分頃)に阿蘇カルデラの四回目の超巨大爆発があり、高温の火砕流が九州一円を覆いつくし、筑豊にも達します。添田の中元寺では、三十mもの厚さの軽石凝灰岩層が見られます。

 泌泉も高温の火砕流に厚く覆われました。湧き上がる地下水で水蒸気爆発を何度も起こしたに違いありません。

 赤村の油須原では、英彦山から流れ下ってくる今川が突然に東へと向きを変えています(第五図)。岩嶽稲荷付近で硬い花崗岩の山をわざわざ峡谷状に掘り下げ、犀川方面へと流れ下っていくのが不思議です。

第5図 赤村中央部の地形

内田原では15mもの厚さの軽石凝灰岩層(阿蘇4火砕流)が残っています。 (山の高さは1.5倍に強調)


 古くから河川争奪の好例として研究されてきました。そして流路変更の原因が阿蘇四火砕流であると考えられています。

 今川は火砕流前には香春の御祓川(糸飛川)へ流れていたと考えられています。川沿いに残る古い段丘礫層中には英彦山由来の安山岩礫等が見られます。赤村の盆地が火砕流によって一瞬の内に埋め尽くされた後、旧今川は流れを変えたのです。

 恐らくそれまでは岩嶽稲荷付近が犀川方面と赤村との分水界を作っていた鞍部であったと思われます。この鞍部をも埋めた火砕流を侵食し、最初に犀川へと流れ下ったのはすぐそばの藤ノ木川であったと思われます。

 続いて、出口を求めていた旧今川の本流がこれに合流したと想像されます。以後、鞍部は急速に侵食が進み、今のような幅狭い峡谷状の川ができたのです。これ以降に全世界的に気温が低下(ウルム氷期)を始め、海面が次第に下がっていきます。ついには大陸と九州は地続きになります。

 この頃、遠賀川の下流は陸地化した響灘を北へと流れ下ります。芦屋の沖合では深い谷をつくっていたことも分かっています。

 二万年前頃から温暖化が始まり、海面は上昇を始めます。六千年前には直方付近まで入り江状の海(古遠賀湾)が入りました。鞍手の新延貝塚や八幡西区の楠橋貝塚などは当時の海岸線に近くある縄文時代の貝塚です。

 少し専門的な事象も加え、直方平野誕生につながる地学上の出来事を紹介しました。筑豊の生い立ちを理解していただくために、小さな資料ともなれば幸いです。

(藤井厚志)