福岡県の東部に位置する田川は、遠賀川上流域の内陸地域で、筑豊の東南部に位置します。この筑豊は北部九州を縦貫する源流の嘉麻川と遠賀川流域及びその支流である穂波川・彦山川・中元寺川・犬鳴川・西川の流域に広がっている遠賀川の起点から、海口まで約五六・七km、東西十二~二八kmに達し、約七八七km2の面積を占めています。筑豊という地域名称は、石炭産出域と筑前国・豊前国の「筑」と「豊」に由来する地域名称です。
作図明治18年国・県の指導のもと筑前国豊前国石炭坑業組合が結成され、若松の支所が後に筑豊五郡坑業組合取締所となりました。これが筑豊の名称の初表記です。
内陸地域の田川は、標高約一二〇〇mの英彦山の裾野(すその)に展開しています。田川地方は東部に貫山地、西部に金国山地、北部に福智山地をもつ盆地で周辺地域との交通は大小の峠と河川に依存してきました。渡来人がもたらした米作りの文化は遠賀川を遡上(そじょう)し、独自の土器を伴いながら田川盆地に到達し定着しています。
また、天台寺(上伊田廃寺)などの新羅系仏教文化に代表されるように、田川地域は他地域との交流で、様々な文化を取り入れてきました。物流は彦山川や中元寺川を利用し、遠賀川に合流する水運に依拠し、芦屋や若松とつながり、さらに近世の年貢米運搬では小倉ともつながったように、近世・近代までは穀倉地帯として発展をしました。
また、英彦山を源流とする今川は津野・赤地域から下流の京都平野に流れており、これを利用した水運も行われてきました。祓川河口右岸に位置する沓尾(くつお)も中世において今井津への東を押さえる海上交通の要衝です。周防灘に面した姥懐(うばがふところ)では英彦山神宮から陸路を通ってお潮井とりが行われており、京都平野との文化的なつながりも田川地域の文化的な発展に大きな影響をもたらせました。遠賀川の水運に用いられた川船を川艜(かわひらた)、あるいは五平太船(ごへいたぶね)といいます。小倉藩では年貢米や物資の運搬手段として使用しました。川艜は年々増加し嘉永四(一八五一)年には、田川郡の御米船は九四艘で、川船積下し品目は、米や石炭だけでなく、雑穀・石炭ガラ・ハゼの実・生蝋・材木・板類・竹類・瓦・鶏卵・木皮・牛馬皮骨・紙・茶・煙草・藍などの産物を運搬していました。遠賀川だけでなく、今川を利用した水運も近世の長井手永と添田手永のつながりに見られるように、小倉へつながるもう一つの交通路として峠道や水運が発達していきました。
近代になると筑豊全体が筑豊炭田として開発され、川艜による水運によって若松港が大変栄えることになります。これにより筑豊という地域地名が形成されるとともに、明治時代の鉄道敷設により大きく発展していきました。そして、石炭産業が下火になると次第に筑豊の文化圏や範囲も縮小していきました。
このように筑豊地方に流れる遠賀川は古代より人々の暮らしを支え、密接な関係を紡ぎながら特色のある豊かな文化をはぐくんできたのです。田川地区では上流の英彦山神宮の神幸祭が終わると上流から中流へと神幸祭が行われそれに伴い田植えが行われます。
また、川を渡る神幸祭も今井祇園社や生立八幡でも行われていました。特に明治期の鉄道敷設による影響もあって彦山川沿いの風治八幡宮の川渡り神幸祭はすべての山車(やま)が川を渡って御旅所へ渡り、本宮に還幸する祭りとして行われるようになりました。田川地方の河川と文化は、遠賀川水系の川渡り神幸祭のように密接な関係の中で地域文化をはぐくんできています。