旧石器・縄文時代の田川

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【関連地域】田川市 香春町 添田町 糸田町 川崎町 大任町 赤村 福智町

 旧石器・縄文時代は、主に石を打ち欠いた道具を使い、縄文時代になると石などを研磨した道具も作れるようになり、土で成形して焼いた器も食材の煮沸や貯蔵のために用いられました。考古学では土器や石器の形状変化から時代を判断し、そして破片であってもそれらの出土地は当時の生活空間であったと考えられます。

 氷河期から温暖化が進んでいた旧石器時代終末期から縄文時代草創期(一万数千年前)ごろの道具の一部らしい黒曜石・安山岩製などの小型ナイフ形石器や細石刃が、田川市寺ノ上遺跡・猫迫一号墳、香春町五徳畑ヶ田遺跡・湯無田遺跡で発見されていて、狩猟活動や食料加工に利用されたと考えられます。また、川崎町木城遺跡の硬質頁岩製の長さ九・五cm、幅三・八cmの縦長剥片(写真①)も旧石器時代のものと考えられます。

写真① 川崎町木城遺跡の縦長剥片


 温暖化とともに海水面が上昇して現在の日本列島のような地形になり南九州の鬼界カルデラ噴火によるアカホヤ火山灰が日本列島の大半に降下した約七千年前ごろまでの住居跡はこの地域で未発見ですが、早期の屋外炉らしい集石遺構が添田町薬師遺跡四基、下井遺跡一基、赤村珠数丸岩屋遺跡十一基、中期の集石遺構が香春町湯無田遺跡で一基発見されています。

 五千年前以降の後期の竪穴住居跡は今川上流域や英彦山川流域で見つかっています。添田町桝田遺跡では四基のうち最も古い後期前半の住居跡(写真②)は四本柱タイプで三・五×四mの隅丸方形プランの中央に敷石石囲炉があり、次の段階の不整円形プラン住居跡では石囲炉の石が一部抜き取られていました。この次の段階の赤村沖代遺跡一号住居跡は隅丸方形に近い直径六・二mの円形で、中央部に地床炉、北側の周壁側に三つの柱穴がほぼ等間隔に並んでいます。また、沖代遺跡から約三km上流左岸の添田町下井遺跡では後期後半の二基の住居跡では直径四mほどの不整円形住居跡の中央に地床炉があり、柱穴配置には規則性がみられませんでした。また、中元寺川流域の添田町観音寺遺跡でも住居跡が見つかっています。

写真② 添田町桝田遺跡の住居跡


 一方、墓は添田町宮ノ前遺跡に底を打ち欠いた鉢形土器を埋めた土器棺墓が一基あり、赤村丸熊遺跡や川崎町冥加塚遺跡でも土器棺らしい遺構があります。土器棺は小児埋葬の確立が高く、成人墓は長径一・五m前後の楕円形土壙などらしいが人骨が見つからないため把握できないのが実情です。添田町後遺跡の硬玉製大珠が見つかった土壙は墓の可能性が高く、赤村沖出遺跡でも蛇紋岩製大珠が出土しています。

写真③ 添田町後遺跡の大珠片


 このほか、赤村合田遺跡で早期の塞ノ神式、香春町湯無田遺跡で前期の轟B式、中期船元式、添田町ズイベガ原遺跡でも前期の轟式、曽畑式、香春町五徳畑ヶ田遺跡や赤村滑遺跡峰岡遺跡、岡本北田遺跡などで後期末~晩期前半期の土器片などがあるので生活空間が広がっていたと考えられます。

 気候の温暖化によって森林植生が形成されたので、堅果類種子などを採集する生業活動は縄文時代を通じて行われ、食料加工に使用された擦り石・石皿などは早期の遺跡でみられ、根茎類などの採取などにも使用できる土掘具の打製石斧は後期中頃から多く発見されています。

 なお、生業で狩猟に関連する遺構として概ね長さ二m、幅一m規模で深さのある土坑の底に逆茂木を立て、坑に落ち込んだ獣が這い上がれないようにした落とし穴遺構があります。今川流域の赤村の珠数丸岩屋遺跡十一基、利正寺遺跡二基、約三km上流の添田町下井遺跡では三〇基が群になり、川崎町冥加塚遺跡でも三基発見されています。珠数丸遺跡などはアカホヤ火山灰降下期以後の掘削されて火山灰を含んだ土砂で埋まっていますが(写真④)、落し穴猟が近代法で禁止されるほどなので時期の特定には慎重を要しています。

(小池史哲)

写真④ 赤村珠数丸遺跡の落とし穴