弥生時代の田川 弥生の人々が見た田川

64 ~ 65

【関連地域】田川市 香春町 添田町 糸田町 川崎町 大任町 赤村 福智町

 田川地域の弥生時代の痕跡は、周囲の山麓から延びた低丘陵とその縁辺に確認できます。一方、中元寺川・彦山川の流域は、非海成堆積岩からなる谷底平野を呈し、水田耕作に適した土壌であったと思われますが、明治時代以降の石炭産業の影響を受けているため、原始・古代の痕跡は限られています。

 この時代は、中国大陸や朝鮮半島を経てモノやヒトが流入します。縄文時代から続く畑作に加え、新たに水稲耕作が伝来すると、それに伴う道具類も各地に広まります。石製品を使用しつつ、青銅器・鉄製品の金属器が流入し、国内でも製作され始めます。各地域の「ムラ」が集まり、社会や生産のシステムを築き、階層が発達、「クニ」が誕生します。

 田川地域は低丘陵上に集落跡が築かれ、壺や甕(かめ)の土器類、稲穂を摘む石庖丁や伐採用の蛤刃石斧(はまぐりばせきふ)等が出土します。また、田川市上本町遺跡・上の原遺跡群では生活痕跡の遺構の埋土等の土を洗って炭化物(コメ・マメ等)が発見され、食性の様子もうかがえます。

集落跡

生活の基盤は丘陵上に前期末頃から後期頃に築かれます。住居跡の平面形は、前期末頃の円形から後期の方形へ変化します。その中で、赤村合田(ごうだ)遺跡では、朝鮮半島と繋がりが窺える松菊里型住居(しょうきくりがたじゅうきょ)が確認できます。食料の貯蔵は、地下に穴を掘る土坑跡から地上の掘立柱建物跡へ変化します。

田川市郡弥生時代遺跡分布図


石器生産

香春町五徳畑ケ田遺跡は、木材伐採道具である太型蛤刃石斧を生産して、集落内で消費・廃棄するサイクルが掴める製作遺跡として捉えられます。

金属器の使用

添田町庄原遺跡は銅製鉇鋳型、青銅の溶解炉遺構が確認されています。また、炉壁や大量のスサ入粘土塊、朝鮮半島系の円形粘土帯土器やベンガラ貯蔵の遺構が確認されています。中期前半頃の銅製鉇鋳型と金属生産に関わる遺構群で、金属器生産の黎明期における資料として重要です。

青銅器祭祀

青銅器の埋納は、糸田町古賀ノ峯・宮山・田淵遺跡で中細・中広形の銅戈(どうか)、銅矛が集中して確認されます。これらは発掘調査事例ではないですが、埋納行為は集団で祭祀を執り行ったと考えられます。何れも、飯塚市立岩遺跡や春日市周辺の奴国側に近い、田川地域西側に位置します。

墓制

墓制は社会様相を反映し、規模や副葬品の有無から身分の違いが捉えられます。田川地域は土壙墓、箱式石棺箱、石蓋土壙墓を丘陵上に築き、青銅器や装身具が副葬されます。福智町伊方石丸遺跡は中期前半から後半にかけての墓域で、七号土壙墓からは十点の碧玉製管玉が出土し、被葬者の装飾品として捉えられます。田川市寺の上(かみ)遺跡群は箱式石棺内より細形銅剣が確認され、中期中頃と考えられます。福岡平野を中心とした甕棺葬(かめかんそう)は分布域東限を示し、成人棺が中期後半頃に上本町遺跡・福智町宝珠遺跡・糸田町上糸田遺跡に流入します。何れも田川地域西部です。一方、日常に使う土器の小形棺は上の原遺跡群、香春町長畑遺跡・五徳畑ケ田遺跡・宮原遺跡、伊方石丸遺跡で、墓地ないし集落内より確認されます。後期は特定集団墓が形成され、棺内の鏡は、厚葬墓として捉えられます。宮原遺跡の箱式石棺墓二基から、四葉座(しようざ)内行花文鏡二面と小型仿製内行花文鏡(こがたぼうせいないこうかもんきょう)一面、宝珠遺跡の箱式石棺墓出土とされる内行花文鏡が出土します。香春町古坊遺跡は丘陵上に終末期の墳墓が築かれます。墓壙の形は楕円形→梯形→菱形へ変遷します。この他に、長畑遺跡・五徳畑ケ田遺跡、福智町野添遺跡群、合田遺跡でも墓制が確認でき、古墳時代へと引き継がれています。

 田川地域の弥生時代は、彦山川・中元寺川の二大流域の低丘陵上に前期末頃から集落跡が形成されます。出土する土器、石製品は様々な用途に合わせた道具として使用されます。後期の集落は、前期末から中期と比べると限られています。住居跡は円形から方形へ変化し、墓は特定個所に集団で形成されます。青銅製品の製造技術の流入は、最先端の情報が入ってきています。墓制は中期後半頃には北部九州で隆盛を極める大型甕棺墓(かめかんぼ)が田川地域へ流入しますが、主体にならず、箱式石棺墓が墓制の主体となり、墓壙の形態が変化しながら古墳時代前期まで引き継がれます。副葬品には鏡や装身具が選ばれますが、特定される墓からの出土は、被葬者が規制の強い階層であることが理解できます。この集団墓内から特定被葬者のための墓へ移り変わることが、古墳時代へ入る要素の一つになります。

(江上正高)

田川市寺の上遺跡出土細形銅剣


香春町宮原遺跡出土鏡