「一山、二山、三山越え……」と炭坑節に唄われた香春岳、五木寛之の「青春の門」映画化で吉永小百合が出演した頃、一ノ岳が高くそびえていたあの映像は印象的でした。石炭から石灰岩へと産業の推移を物語る山となりましたが、今でも昔の面影を残し、国内でも比類なき名山として、香春町を象徴しています。
この山が古代より銅を産出していたことは古くから知られていました。それは八世紀初頭の古文書『豊前国風土記』逸文、鹿春郷の記述に「…昔者 新羅國神 自度到来 住二此河原一 便即 名曰二鹿春神一 又 郷北有レ峯 頂有レ沼周卅六歩許 黄楊樹生 兼有二龍骨一 第二峯有二 銅并黄楊龍骨等一 第三峯有二龍骨一」とあり、二ノ岳に銅が在ることが記されており、付近に採銅所の地名が残っていることや、平安時代中頃の古文書『延喜式』に備中国・長門国・豊前国が三大銅生産国とされており、豊前国は香春の銅と推定されてきました。
特に、『豊前国風土記』逸文の新羅国神の記述や、天台寺跡(上伊田廃寺)(延暦二四年最澄が唐から帰国し答礼に訪れてから天台寺となった)から新羅系瓦が出土しており、宇佐八幡の虚空蔵廃寺跡との関連から、渡来系の人々が銅生産を担ったと考えられています(註1)。
ところで長門国の銅生産は、五十年前に古代の長登銅山跡が発見され、その後の調査で奈良の大仏や皇朝十二銭の料銅に使用されたことが実証され、周辺に七世紀中頃からの銅関連の遺跡が複数発掘され、律令国家の長門鋳銭司・周防鋳銭司などが置かれたことで銅の一大中心地であったことが判明しました(註2)。
この長登銅山跡は平安時代の長門国採銅所と推定できますが、八世紀前半の大量に出土した木簡の中には、豊前との関係を示唆するものがあります。その一つは銅製錬工人に「宇佐恵勝里万呂」「秦部酒手」や宇佐八幡神官系とみられる「大神直都々美」「神部幸」「下神部小嶋」などが見え、渡来系技術者しかも宇佐八幡との関係が濃厚であることが知られています。
また、製銅の付札に「豊前門司」宛ての荷札が十数点出土しています(註3)。門司は古代の関門海峡を通行する船の検閲を行った機関であり、ここからさらに大宰府に転送されたかも知れません。注文者は九州の玄関口の役所・門司(とのつかさ)です。
このことは長登木簡の神亀三(七二六)年~天平五(七三三)年頃、豊前での銅生産は低迷していたことを物語っています(註2)。豊前での産銅記録が表れるのは元慶二(八七八)年三月で、豊前國規矩郡の銅を採る為、徭夫百人を充てたことが記録されています(註3)。
これは金辺峠の北側企救郡の産出ですが、後の仁和元(八八五)年三月には長門から技術者が豊前に派遣されて技術を伝授した(註3)ということで、この頃まで豊前の採銅技術は低迷しており、『延喜式』の十世紀初頭頃には本格的な銅生産が行われていたといえます。
これまで香春岳における産銅は、ロマンで語り継がれており物的証拠に欠けます。しかし、先の『豊前国風土記』逸文は気にかかり、あるいは七世紀以前に遡る可能性(註4)が考えられるので、今少し可能性を検討してみましょう。
平成十(一九九八)年から香春岳一帯の鉱山の悉皆調査が実施され、近世から近代の鉱山跡二八箇所が踏査され大きな成果を上げていますが、古代の手掛かりはつかめませんでした(註5)。
筆者も平成八(一九九六)年三月、村上利男先生の要請で二日間銅山跡を踏査したことがありますが、この折気になったのは、二ノ岳の西中腹にある旧香春岳銅山と呼ばれた鍾乳洞です。鉱業権内にあるので詳細調査ははばかられましたが、長登銅山跡の様相に良く似ていました。近年再び注目されているようなので、今後の成果が楽しみです。
もう一か所、貴船神社の上の急崖に露頭とズリを確認できました。どこの銅山でも最初は露頭から着手されており、有望な一角といえ、麓の古池一帯での製錬が想定できます。それは古代の銅製錬・鋳造には水が不可欠であり、その名残と解せなくもありません。地下一mにカラミが堆積していないのでしょうか。
なお、三ノ岳の神間歩も含めて北西麓のズリネ、宗丹、床屋、水晶、横鶴、セルバの各銅山跡は平安時代に開発された可能性があるといえます。香春岳西側は中生代白亜紀の花崗岩との接触交代鉱床であり、世界的に見ても石灰岩地帯のスカルン鉱床は一早く開発されており、古代の採銅所地名が近くに在ることがその傍証となるでしょう。
それに比べて香春岳東側の殿町、二ノ岳、古宮銅山跡は古生代二畳紀の田川変成岩類にあり、鉱脈鉱床ですので開発は少し遅れると見てよいでしょう。ちなみに古宮銅山跡前には江戸以降と見られる製錬カラミが多量に堆積しています。このカラミも板状のカラミがあれば、明らかに中世以降の産物といえます。古代のカラミは表面をミミズが這ったようにゆるやかに流れている流状カラミが主体です。
以上の点に留意して探索してみる必要があります。ロマンから現実に近づきたいものです。
令和二(二〇二〇)年、念願であった長門の古代於福(おふく)銅山製錬所跡(於福金山遺跡)が発見され、令和三(二〇二一)年の発掘で大量のカラミと共に数十基の炉跡が検出されました。地下一mに眠っていたのです。
香春岳の銅生産(池田善文)参考文献
①田村園澄「香春の神と香春岳」、村上允英「香春岳及び周辺地域の地質・鉱物」『香春岳』香春町教育委員会 一九九二年
②池田善文『日本の遺跡49 長登銅山跡』同成社 二〇一五年
③中山光夫「北九州地区の産銅関係資料集成」『かわら』五十三集、二〇〇一年
④亀田修一「日本における銅生産の始まり―文献史料・考古資料・鉛同位体比分析の総合化―」『かわら』八十六集、二〇一八年
⑤中村修身・中山光夫・片山安夫・福田勝南・中野直毅・野村憲一外 「福岡県香春岳の銅生産に関する調査研究」『地域相研究会』二七号 地域相研究会 一九九九年。