北部九州は朝鮮半島の対岸という地理的特性から、古来より、朝鮮半島との交流によって生じた文物が多く残されています。田川地域も同様に朝鮮半島に由来する遺跡や遺物が多くあることから、内陸部であっても、遠賀川水系で響灘とつながっているため、田川と朝鮮半島との往来にはそれほど障害がなかったようです。
朝鮮半島からの文化の波は、田川地域では弥生時代からすでに押し寄せています。松菊里遺跡(韓国忠清南道扶余郡)に特徴的な、いわゆる「松菊里型住居(しょうきくりがたじゅうきょ)」が合田遺跡(赤村)で検出され、また、庄原遺跡(添田町)では、半島伝来の技術である青銅器の鋳造が、早い段階から行われていたことがわかっています。
続く古墳時代の五世紀以降、田川と朝鮮半島との交流はより顕著となります。当時の北部九州の諸首長は、百済と親しいヤマト王権に従属する一方で、新羅・加耶とも独自のルートをもっていました。田川の首長たちによって、横穴式石室に代表される新たな思想や、須恵器製作・金工技術・馬文化など、日本列島に革新をもたらした様々な文物が、朝鮮半島から田川にもたらされました。
猫迫一号墳とセスドノ古墳(田川市)の初期横穴式石室にみられる側壁に板石を立てるという特徴は、日本列島にはなく、加耶の達西古墳群(韓国大邱広域市)や星山洞古墳群(同慶尚北道星州郡)に類似点が指摘されています。さらに、猫迫一号墳では日本最古段階の馬形埴輪が出土しており、リアリティーを追求したつくり手は、日本では未だ見慣れない馬を十分に観察できる環境にあったといえます。馬形埴輪には生殖器が表現されていることから、猫迫一号墳の被葬者らにとって、馬は種馬という財産でした。同古墳から出土した初期須恵器の壺と器台も、加耶南部の福泉洞古墳群(韓国釜山広域市)に類例が見出されます。セスドノ古墳からは、渡来文化を象徴する短甲・馬具・陶質土器小壺・金製冠・金製垂飾付耳飾も出土しています。
これら両古墳は規模や立地により、五世紀前半の猫迫一号墳から五世紀後半・末のセスドノ古墳へと連なる、同系列の首長墓とされます。両古墳が所在する丘陵では、四世紀以前の顕著な首長墓がなく、五世紀代に猫迫一号墳・セスドノ古墳が首長墓として頭角を現します。両古墳は墳丘と石室という日本の伝統的な葬式を踏襲しながら、石室の形態や副葬品、埴輪の馬といった新たな要素を付加しており、朝鮮半島との交流を背景に新興した首長の姿がうかがわれます。
ところで、『豊前国風土記』逸文に新羅神が香春岳へ来訪したという記述があるように、田川地域は朝鮮半島でも特に東南部の新羅・加耶地域と交流のパイプがあったことが、猫迫一号墳やセスドノ古墳からも推測されます。同様に、長畑遺跡(香春町)の金製垂飾付耳飾も、義城塔里古墳群(韓国慶尚北道義城郡)や新興里古墳群(同慶尚北道尚州市)といった新羅に類例が求められ、長谷池遺跡群・伊田狐塚横穴群・経塚遺跡群(田川市)の横穴墓から出土した頸部と胴部の境に突帯を巡らす須恵器(頸基部突帯須恵器)は、日本ではあまり見られず、朝鮮半島の加耶地域によくみられる特徴です。
大加耶が五六二年に新羅から滅ぼされたことにより、加耶地域は新羅の領土になります。したがって、香春岳に来訪した新羅神は、加耶を含めた新羅の領域からやって来た「神」の総称と推測されますが、来訪の動機は、五世紀代から続く田川との交流の記憶が、縁となったかもしれません。
一方、遠賀川流域では、五二七年の磐井の乱後、制圧したヤマト王権に親しい百済系の遺物が増えることが指摘されています。神崎一号墳(福智町)出土の獅噛環頭柄頭は伏岩里三号墳(韓国全羅南道羅州市)出土品に類似するとされ、また、伊田狐塚横穴墓(田川市)の多角形袋部鉄矛なども、百済の系統とされています。
七世紀の朝鮮半島では、新羅が六六三年に百済、六六八年に高句麗を滅ぼして、六七六年には唐を駆逐して半島を統一しました。この頃の田川では、流麗な文様をもつ有名な新羅系瓦をはじめ、百済(古新羅系)・高句麗系の瓦を用いた天台寺跡(上伊田廃寺)(田川市)が七世紀末に建立されます。半島の動乱に巻き込まれた人々がボーダレス化して渡来し、田川で仏教寺院の建立に関与したことを出土した瓦が物語ります。
波濤を超えた田川と朝鮮半島との交流は、古来から断続的に行われてきました。交流の記憶は、『豊前国風土記』逸文や香春神社の祭神・辛国息長大姫大目命の名、また残された渡来系遺物から、その一端に触れることができます。