桑原屯倉(みやけ) 国家直営の穀倉

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【関連地域】大任町 赤村

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 屯倉(みやけ)とは、大和朝廷の直轄地のことを指します。大和朝廷が日本全国を直接支配していく上でできたものです。「屯倉」と表記することが多いのですが、「宮家」と書くこともあります。

 もともとは、直轄地で収穫されるお米を貯蔵する倉のことを指していましたが、後に倉がある地域全体を表す言葉に変化していきました。時々、町民から桑原屯倉について、お米を貯蔵する倉があったのかと聞かれることがありますが、あながち間違いではありません。

 今の大任町付近は、豊前国といわれ、古くは豊後国を含めて豊の国と呼ばれていました。奈良時代に書かれた『日本書記』によると、屯倉は安閑(あんかん)天皇二(五三五)年全国に二六カ所設置され、このうち豊の国には、湊崎(みさき)、大貫(おおぬき)、肝等(かと)、我鹿(あが)、桑原(くわばら)の五カ所であったことが記録されています。

 豊の国に設置された屯倉については、湊崎・大貫は現在の北九州市内、肝等は苅田町付近、我鹿は赤村、桑原は大任町の桑原という説です。桑原以外については、ほぼ定説になっていますが、桑原については、異説も多く存在します。というのも、他四か所については、地名が残っているなどの理由から異説がないのですが、桑原は我鹿と地域が隣接していることを理由に京都郡や築上郡の別の場所を挙げる人もいます。

 ただし、桑原が我鹿に隣接するからといって、大任町の桑原が屯倉であるという説を退けるわけには行きません。なぜなら、大任町付近は大和朝廷が重要視した場所と考えられるからです。

 その理由としては、屯倉が設置された年代以降、大任町付近は古墳、特に横穴墓が多く造られています。その築造にあたっては、渡来人(朝鮮半島から渡ってきた技術者たち)が多く関わったであろうこと、桑原については神社の祭神の一部が日本の神様ではなく、渡来人がまつった神様であることなどが挙げられます。当時の最先端の技術をもつ渡来人が、大任町付近に多くいたことはそれだけでも大和朝廷が重要視していたといえるのではないでしょうか?

 しかしながら、一四〇〇年前の昔のことですから、今後の研究成果に大いに期待しています。

(佐々木絵里奈)

桑原神社(大任町今任原)


「桑原屯倉ノ址」の石碑


 

我鹿屯倉(あがみやけ)(註)

註:我鹿は古くは「あが」が「あか」へと転訛したとされます。

 『日本書紀』によると、赤村には「我鹿屯倉」がおかれていたとあり、有力な推定地として定説と成っています。古墳時代前期は合田遺跡があり、後期には滑・油須原遺跡が形成されています。今後、我鹿屯倉と考えられる遺跡が確認される可能性は高いといえるでしょう。楽しみですね。

(中野直毅)

福岡県の屯倉などの位置関係図 緑線:推定駅伝路 作図:中野直毅

1大宰府 2筑紫館 3那津官家 4糟屋郡衙 5福原長者原遺跡6豊前国府 7上毛郡衙 8下毛郡衙 9観世音寺 10大分廃寺11天台寺跡 12椿市廃寺 13垂水廃寺 14糟屋屯倉 15穂波屯倉16嘉麻屯倉 17我鹿屯倉 18肝等屯倉 19大貫屯倉 20湊崎屯倉21桑原屯倉 22大野城 23阿志岐城 24鹿毛馬神籠石 25御所ヶ谷神籠石 26唐原山城跡