宇佐八幡・八幡信仰と田川 八幡様を支えた経済と技術

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【関連地域】香春町

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 田川地域や京築地域は旧国名、豊前国の北方に位置します。この地域は渡来系の人々、主に秦氏が多く住み着いた地域です。その証として当時の戸籍(庚午年籍)や香春神社の由来(新羅神)、発掘調査による古墳や横穴墓の副葬品(耳飾りなど)、集落内からの出土品が物語っています。

大正時代頃の香春岳  提供:重藤萬里コレクション


 その南方は「宇佐国」と呼ばれるように宇佐国造(うさくにのみやつこ)が勢力を持っていましたが、継体二一(五二七)年に発生した筑紫君磐井(いわい)の乱の後に宇佐国造は失墜し、香春岳にも関係が深い秦(はた)(辛嶋)氏が宇佐に入りました。その後、宇佐では秦氏と大和系大神氏が官社設立を巡り対立していくことになります。その時、法蓮は大神氏に招かれ、大神氏の応神天皇を八幡神として祭神に決定し、宇佐神宮の神宮寺であった弥勒寺の初代別当(大寺に置かれた長官)となります。法蓮は香春岳での新羅新仏教の修行が大宰府に認められ、飛鳥の玄奘三蔵の弟子道昭に入門、大成し、宇佐に虚空蔵(こくぞう)寺を開き、弟子と共に彦山に弥勒菩薩四十九院を創建した人物です。その後、八幡神社が官社に認定され、奈良平安時代を通じて八幡神と秦氏の密接な関係が続いていくことになります。

 このように、この宇佐八幡・八幡信仰と田川の関係を結び付けたのは法蓮や香春岳の金属資源を背景に宇佐へ入った秦氏の関わりでありますが、現在も記録として残っているのが宇佐八幡の御神体、御神鏡奉納でしょう。その起こりは八幡放生会(ほうじょうえ)にあります。現存最古の記録は『宇佐御託宣集(うさごたくせんしゅう)』五巻に記されていますが、隼人の供養である律令制完成を記念する祝賀の法会でもあり、豊前一国の課役による仏神事であるとともに、それは国家的事業でもありました。和銅七(七一四)年の移民、養老の神軍編成以来豊国、とくに田河郡と八幡神は最大の深い関係があり、ここから神鏡を奉納、上毛郡から、細男舞(くわしおのまい)を奉仕、上毛・下毛郡から船による傀儡子舞(くぐつしのまい)、宇佐本宮からは神宮寺が奉仕してこの祭礼が構成されています。しかも採銅所鋳造の神鏡は官幣として勅使に供奉する豊日別社の社人とともに国衙(こくが)を発し、この神鏡の行列は宇佐宮百体社(隼人殿)で八幡宮行列に同班、和間浜に向かい、放生会が執行され官幣として八幡神に奉納で放生会は行われました。これを機に養老四(七二〇)年から四年に一度、清祀殿で香春岳の銅を使って御神鏡を鋳造し古宮八幡から御神鏡三体を神輿に乗せ味見峠を越え豊日別神社(行橋市草場)へ、さらに宇佐八幡まで行くのです。

 また、古宮八幡・豊日別・長光家文書などには奉納行事を行ったことが記されています。御神鏡奉納ことや清祀殿(板葺)、天照大神社、神宿殿、勅使殿、在庁官人小屋が各々一宇ずつ設けられたことなど書かれています。採銅所長光にはその技術を伝承してきた長光家があり、北側には工房跡とされる清祀殿が今でもあります。社の裏側には鋳造された三体の御神鏡を安置した御床石(三体)が残っており、目に見える唯一の文化財です。

清祀殿(香春町採銅所)


 周辺の香春岳では『豊前国風土記』和銅六(七一三)年編纂の中で新羅の神が鹿春の神になったと伝えられ、この鹿春の神を祀ったのが現在の香春神社とされています。その中には二ノ岳の銅採掘の記録も見られ、この地が古代において重要な地であったことがうかがえます。

香春神社


 長光遺跡では清祀殿との関連が考えられる包含層から銅滓が出土しています。近くの香春町宮原金山遺跡でも、鉄生産の痕跡が確認されています。このように、古代から中世にかけて長らく鉱山資源に恵まれていたようです。

 最後に田川地域の荘園は、宇佐八幡との関わりで、香春町内には宇佐宮領の香春町勾金庄があり、地元の香春社領、香春庄の名も見られます。

(野村憲一)