古代寺院と仏教文化 新しい仏教の流入

82 ~ 83

【関連地域】田川市

 大和政権は六世紀初めの継体天皇の頃から、天皇を中央とした政権へ歩みはじめ、六世紀末から七世紀初めに、最初の女性天皇である推古天皇と摂政・聖徳太子と蘇我馬子らの豪族によって政治機構が整ってきました。それらは、朝鮮半島から伝わった仏教を新しい礎としました。大和政権は仏教を保護し、飛鳥地方では豪族・渡来系氏族らによって飛鳥寺をはじめとする古代寺院が造営され、飛鳥文化が起こります。文化には新しい諸技術がつきもので、建築技術、屋根を葺(ふ)く瓦を生産する窯の造営、仏像造りなどが隆盛します。その後、大化の改新[大化元(六四五)年]を経て各地の豪族たちに伝播しますが、これまでの社会的地位を示す古墳造りが終焉し、寺院造りへ変化します。豊前国の各郡でも、七世紀後半頃から有力豪族や郡司層の氏寺による古代寺院の造営が始まります。

天台寺跡(上伊田廃寺)

 田川市大字伊田

 彦山川と金辺川(きべがわ)支流に挟まれた台地上に位置する市指定文化財(史跡)です。現在の鎮西公園内に伽藍(がらん)が配置され、中門・金堂・講堂が南北に一直線に並び、回廊が巡ります。また、金堂の東側には、後に塔が建てられます。軒丸瓦は新羅(しらぎ)系(古・統一)・高句麗(こうくり)系・百済(くだら)系の蓮花文様、軒平(のきひら)瓦は新羅系扁行唐草文(へんこうからくさもん)、百済系重弧文(じゅうこもん)が見られます。創建は七世紀末(白鳳時代)から八世紀初頭頃と考えられます。瓦は東へ約五〇〇m離れた二基の瓦窯跡で生産されました。寺の存続は、九世紀前半頃の土器類・瓦の出土が見られます。

天台寺(上伊田廃寺)跡想定図  絵画:是澤清一


天台寺(上伊田廃寺)跡 五重塔想定模型

研究者:花村利彦 製作者:和田一雄


菩提廃寺跡

 京都郡みやこ町勝山松田

 京都郡と田川郡の郡境である仲哀峠の東麓に位置します。塔心礎と礎石、金堂跡が確認されています。塔は一辺が一三・七mの基壇上に立つ三間四方(五・四五m)建物で、金堂は五間×四間(十m×八・五m)の四面庇建物です。創建は八世紀後半で、一三世紀代まで続きます。

上坂廃寺跡

 京都郡みやこ町豊津上坂

 祓川(はらいがわ)中流の左岸に位置します。塔・金堂・講堂が観世音寺式伽藍配置(かんぜおんじしきがらんはいち)と考えられます。また、花崗岩(かこうがん)製の塔心礎は、県指定文化財です。創建は七世紀後半頃で、軒丸瓦は百済系、鴟尾(しび)は築上郡築上町船迫窯跡で生産されています。その後八世紀代には老司系・鴻臚館(こうろかん)系などの大宰府系、畿内平城宮系の影響を受けた瓦を使用します。

椿市廃寺跡

 行橋市大字福丸

 京都平野の北西部に位置します。寺院の面積は一町半四方(約一六三m)と考えられ、塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置が確認されます。講堂は庇(ひさし)を備え、金堂と塔を囲む回廊跡も確認されます。軒丸瓦は百済系・高麗(こうらい)系・老司系が使用されますが、奈良市平城宮・みやこ町上坂廃寺・同町木山廃寺・田川市天台寺跡で出土した軒丸瓦と同じ範型(同じ文様の木型のスタンプ)であることが確認されます。軒平瓦は重弧文・新羅系偏行唐草文、鴟尾や仏像螺髪(らほつ)も確認されます。

垂水廃寺跡

 築上郡上毛町垂水(たるみ)

 山国川と友枝川の合流地点西岸に位置します。約一六m四方以上の基壇跡の掘り込みと金堂礎石と考えられる遺構が見つかっています。方二町(約二一八m四方)の法隆寺式伽藍配置が想定されます。瓦は、南西二・五km離れた友枝瓦窯で生産され、創建は七世紀末(白鳳時代)から八世紀初頭頃と考えられます。

虚空蔵寺跡

 大分県宇佐市山本

 駅館川左岸に位置し、一町(一〇九m)四方の法起寺式伽藍配置と考えられます。瓦を積んだ基壇の上に塔心礎が残り、川原寺系軒丸瓦や法隆寺系忍冬唐草文軒平瓦、奈良県南法華寺と同じ范型で造られた塼仏(せんぶつ)が出土しています。瓦は同地区の虚空蔵寺瓦窯・切寄瓦窯で生産されました。

 このように、古代寺院造営は建物の配置や範型により、郡域を超えた交流の様相がうかがえます。

(江上正高)

豊前国古代寺院等分布図