古代に新しく成立した施設の代表的なものに、仏教の伝来によって各地に建立された寺院や官衙(かんが)に関係すると考えられる建物群があげられます。
官衙とは古代の役所のことで、律令制のもと中央では二官八省が置かれ、地方は国、郡、里(後に郷)に分けられ、それぞれ国司、郡司、里長(郷長)が治め、その公務を行う場所が国衙(国府)、郡衙(郡家)と呼ばれていました。官衙では大型の掘立柱建物が規則性を持って建てられ、一般集落では見られない輸入陶磁器や緑釉陶器、墨書土器や硯、木簡など文字に関係する資料が見られることが特徴です。
豊前国の官衙では、福原長者原官衙遺跡(初期の豊前国府かそれ以上の施設)やみやこ町(豊津)に豊前国府があります。その下には郡ごとに郡衙が置かれますが、現在比定されている遺跡として大ノ瀬下大坪遺跡(上毛郡庁)、長者屋敷遺跡(下毛郡正倉)、延永ヤヨミ園遺跡(草野津)などが知られています。
田川地域では古代の官衙的な遺跡として香春町浦松遺跡や福智町伊方城園遺跡、添田町宮ノ前遺跡、田川市倉ヶ原遺跡で大型の掘立柱建物が調査されています。香春郷の中には、浦松遺跡があり大型掘立柱建物は田川郡衙、天台寺跡(上伊田廃寺)の創建時期と重なり、官道推定地にも近接しています。また、鍛治関連の遺物も出土し、鉄製品の生産が行われていたと考えられています。直接官衙跡を示す出土遺物はなく、在地の豪族居館と推定されています。また、香春町内香春岳西側の五徳畑ヶ田遺跡からは掘立建物が複数見られ須恵器、土師器(はじき)が多く出土しています。円面硯も出土しているので官営的な倉庫があったかもしれません。
伊方城園遺跡は浦松遺跡より少し時代が下り、古代末から中世にかけての遺跡です。ここでも大型の掘立柱建物が発掘されています。この遺跡の建物は、役所風ですが官道推定地からも少し離れており、古代末に成立した「伊方荘」と呼ばれる荘園の拠点施設ではないかと考えられています。
宮ノ前遺跡では、奈良から平安時代にかけての郷庁跡とみられる官衙的な遺跡が発見されています。官衙遺構でしか見られない墨書土器、中国製青磁、緑釉陶器などの遺物とともに大型の建物跡が発見されています。また、添田町観音寺遺跡では、田川では初見となる石帯が出土しています。
平安時代には「副田荘」安楽寺領となります。
また、古代は駅伝制と呼ばれる制度により中央と地方が結ばれていました。駅家と呼ばれる施設は官道と呼ばれる中央と地方を結ぶ駅路に置かれた中継地で、官衙はこの道路に沿って置かれていたと考えられています。駅伝制の駅は主要道、伝の方の伝馬制は主要道の駅家と派生する地方道を結ぶ制度でした。田川市倉ヶ原遺跡では『延喜式』に記載のある田河駅(うまや)との関連が推定される長方形の掘立柱建物が検出され、駅家の可能性も指摘されています。