古代官道は、七世紀の律令国家が形成されたとき制定された駅伝制により作られた古代の計画道路です。中央から地方への緊急・重大な連絡など軍用道路の性格も持つ駅路(駅制)と、国司などが都から赴任する時などに使った伝路(伝馬制で利用)がありました。古代の全国六十余国は、都の置かれた畿内と七道に分かれていましたが西海道は約十六キロごとに駅家がおかれ、大路は二十頭、中路は十頭、小路は五頭の馬が常備され、駅鈴(えきれい)の刻みの数で利用することができました。六世紀末から七世紀初頭に始まった古代の計画道路網は天智天皇の時、白村江の敗戦による国際情勢が緊迫し整備が進んだとされています。この道路は北部九州では大宰府を中心に配置され、神籠石などの古代山城が近くにあることが多くあります。前期の駅路は幅約十二m、後期の駅路は幅約六mで、丘陵であれば直線に切り通した大規模計画道路です。道を基準に条理が整備され、国や郡、大字などの境界線とし、「車路」「車地」「立石」「木実」などの関連地名が存在します。この道は軍隊が使う車を通し、道沿いに実のなる木を植え、水場の確保など利便性を考慮して整備されました。
田川には大宰府から豊前国府へ向かう駅路が通っていました。十世紀前半の『延喜式(えんぎしき)』という書物には、後期駅路の綱別駅、田河駅、多米駅、苅田駅、築城駅などが記されています。田河駅は前期を鏡山付近、後期を下伊田遺跡群の倉ヶ原遺跡(以下は、倉ヶ原遺跡と表記)とする説もありますが、実態は不明です。綱別駅から越谷越(綱分越)で関の山を越えると糸田町馬取谷(うまとりだに)を通ります。糸田町と田川市の境界を直線で通っています。糸田町には「異国屋敷」「雑餉塚」「車地」「車路」などの関連地名があり、関の山の付近には「伝通山」や「馬取谷」などの関連地名が残っています。
また、田川市夏吉の丘陵には立石様(たていしさま)という立柱石が四本祀られています。六坑バス停付近の「立石の森」の丘陵に祀られていました。悪いことをするとたたられるという忌避(きひ)伝承が伝わっていましたが、現在は別の場所に祀られています。さらに、昔話「関の山どんと夏吉どんの話」も伝わっています。夏吉どんが村人を動員して一夜にして道を造ったというお話から駅路の整備と関連がある昔話といわれています。関の山の丘陵にはかって「関の山どんの石碑」といわれる立柱石が昭和二八(一九五三)年頃まで立っていたといわれています。
駅路は夏吉と下伊田の境界を通って香春町に入ります。香春町役場の中を通過。大石様、春日様という立柱石に沿って鏡山大神社側を通過します。香春町には万葉集にある和歌が六首残されており、前期駅家の香春駅が鏡山付近にあった可能性もあります。伽藍松(がらんまつ)を経て石鍋口、石鍋越(いしなべごえ)で障子ヶ岳を越え、勝山町の大久保で右折し豊前国府へ向かったとされます。
大坂山付近には香春町柿下大坂、赤村内田字大坂、京都郡みやこ町犀川大坂の三つの「大坂」があります。大坂とは山越えの主要交通路を示し、香春町と赤村の境界の谷をつめた峠が、大坂越です。
香春町柿下には「道ノ下」、南紫竹原には「車原」地名があり、天台寺の傍らを通る伝路と考えられます。倉ヶ原遺跡(田河郡家推定地)から大坂山を越える伝路は、木山廃寺を経て仲津郡家を結び豊前国府へ至っていると想定されます。古代山城の御所ヶ谷神籠石(ごしょがたにこうごいし)はちょうど駅路と伝路の間にあります。