鏡山に前期の田河駅があったと推定されています。
鏡山には、祇園馬場、明神馬場、馬立、駒引など駅家(うまや)や古代官道に関連するといわれる地名が多く残っています。また、みやこ町豊津の豊前国府から約十三kmの位置にあり、駅家間の距離約十六kmより少し短いですが、峠を越えた場所にある立地を考慮すると適当な距離だと考えられています。鏡山からみやこ町に抜ける峠ルートは諸説あり定まっていませんが、仲哀天皇にちなむとされる仲哀峠(一般的に七曲峠のこととされる)と石鍋越(いしなべごえ)があります。前者は地名の由来やみやこ町側には菩提廃寺もあり古くからあるルートとされています。後者は、みやこ町側で発見された古代道路の遺構や痕跡から官道が障子ヶ岳を目標に設置されていることから推定され、時代は下りますが彦山峰入りの鍋越宿があるとされている重要なルートです。田川郡側で古代官道の遺構は発見されていませんが、みやこ町では呰見樋ノ口遺跡・カワラケ田遺跡、行橋市では大谷車掘遺跡があります。
鏡山大神社の横には、大宰府の長官であった河内王(かわちおう)の墓があります。河内王は、王とつくことから皇族であるとされ、手持女王(たもちのおおきみ)は河内王の妻か息女と考えられています。地元の伝承では、「ほおきばる」と呼ばれる場所が河内王の墓とも言われていますが、詳細は分かっていません。『万葉集』にこの鏡山の地で詠まれたとされる和歌が七首あります。
河内王を豊前国鏡の山に葬(はふ)る時、手持女王の作る歌三首
王(おおきみ)の親魄(むつたま)逢(あ)へや豊国の鏡の山を宮と定むる
豊国の鏡の山の石戸立て隠(こも)りにけらし待てど来まさず
石戸破(いわとわ)る手力もがも手弱(たよわ)き女にしあれば術の知らなく
鞍作村主益人、豊前国より京に上る時作れる歌一首
梓弓引き豊国の鏡山見ず久ならば恋ほしけむかも
抜気大首(ぬきのけだのおびと)筑紫に任けらえし時に、豊前の国の娘子紐児を娶りて作る歌三首
豊国の香春は吾(わぎえ)宅紐の児にいつがり居れば香春は吾家
石上(いそのかみ)布留(ふる)の早田(わさだ)の穂はいでず 心のうちに恋ふるこの頃
くのみし恋ひし渡れば たまきはる命もわれは惜しけくもなし
万葉歌と古代官道は深い関わりがあり、大宰府から田河道へ向かう最初の駅家である蘆城(あしき)駅家(筑紫野市阿志岐・吉木)は、『延喜式』には記載がなく、『万葉集』におさめられた九首だけに見られます。大伴旅人が大納言になった天平二(七三〇)年のことで、『万葉集』巻第四に「大宰帥大伴卿、大納言に任けられて京に臨入むとする時に、府の官人等、卿を筑前蘆城の駅家に餞(せん)する歌四首」が載せられています。大伴旅人(おおとものたびと)は大宰府道から山陽道を通り、都へ帰ったと思われますが、従者たちは 豊前路を通って草野津から船路で帰京しました。大宰府と都を結ぶ最も重要な官道は、海沿いを通る大宰府道のルートでしたが、田川を通る豊前路はアップダウンが多いものの、より短い距離で豊前国府や草野津から瀬戸内海に出られる重要なルートであったと考えられています。
河内王の墓と和歌が残る鏡山に駅家があったと想定されていますが、駅名は「田河駅」と郡名を冠することなどから、田川市の倉ヶ原遺跡の周辺との説もあります。現時点での研究や調査では明らかになっておらず、全国的な駅路の路線変更が行われた際に、この地でも駅家の位置が動いた可能性などを考慮しながら、今後も探っていく必要があります。