天平十二(七四〇)年の藤原廣嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱は、吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)の排除をかかげて、大宰府で挙兵し、九州一円を巻き込む大乱でした。廣嗣は軍勢を三軍に分け、自らは大隅・薩摩・筑前・豊後などの国の軍合わせて約五〇〇〇を率いて鞍手道、弟の綱手は筑後・肥前などの軍合わせて約五〇〇〇を率いて豊後国を経て、多胡古麻呂(たごのこまろ)の軍は数が不明であるが田河(たがわ)道と、三道に分かれて進軍しました。北九州市小倉北区板櫃(いたびつ)町に在ったとされる板櫃鎮(いたびつのちん)を目的地としていたことから、田河道は西海道駅路の豊前路を香春町まで来て、採銅所から金辺(きべ)峠を越えて企救(きく)郡に至る伝路を利用したと考えられます。具体的な痕跡などは発見されていませんが、金辺峠は、板櫃鎮に向かうには田河道とともに最短コースであり、近世小倉(秋月)街道のルートであり、現在も国道三二二号バイパスが通る交通の要所です。廣嗣の本軍が大路である大宰府道を通らなかったのは、おそらく中央との結び付きが強い宗像(むなかた)氏が廣嗣に反対の態度を表明したので、その支配下にある宗像郡を避けた可能性が考えられます。
飯岳ともよばれる大坂山付近にも伝路があったとされています。この飯岳の名は、藤原廣嗣が大宰少弐(だざいのしょうに)として下向し、国状の視察をした折に、この山で空腹をおぼえた広嗣に、地元の人が急いでご飯を炊き差し上げたとの伝承に由来します。大坂という地名は、古代の主要交通路に残る地名とされ、香春町柿下からみやこ町犀川(さいがわ)に抜ける峠道を大坂といい、現在は県道田川犀川線が通っています。大坂越えは、田川郡と現在は存在しない仲津郡(旧犀川町など)を結ぶ主要路と考えられ、仲津郡側の峠入り口あたりは、八世紀前半の瓦が出土する木山廃寺や福六瓦窯(かわらがま)跡などがあり、このルートが重要であったことがうかがわれます。赤村内田にも大坂という地名があることから、香春町と赤村の境の二三五・七mの峠越えが本来の大坂越えと考えられています。
明確に伝路に関わる遺跡は発見されていませんが、重要な遺跡として香春町の浦松遺跡があります。浦松遺跡からは七~八世紀ころの、ほぼ正方位を軸にした官衙(かんが)的な掘立柱建物跡が発見され、その周囲は大坂山のルートをはじめ、天台寺跡(上伊田廃寺)、我鹿屯倉(あがみやけ)などがあり、田川郡内の要衝の地であることから、官道にかかわる施設があった遺跡と考えられています。
福原長者原遺跡(行橋市)は七世紀末から八世紀前半の古代の官衙遺跡。大規模な区画施設の中に大規模掘立柱建物が並び建つ。通常の地方官衙を上回る規模を有し、藤原宮の平面プランをモデルとした可能性のある行政施設と考えられます。
また、周辺には豊前国府、上坂廃寺、木山廃寺、京都鎮、草野津(豊前国の湊)の存在など古代律令国家成立期の地方統治の実態を知る上で重要なものが多く存在しています。