最澄の足跡と天台宗
宇佐宮(宇佐八幡宮)と最澄との結びつきは田川地方に大きな影響をおよぼしました。我が国では大乗仏教の法華経が国家の柱とされ、最澄はこれをよりどころとし、菩薩たる人材の育成をめざしていました。最澄は桓武天皇の勅命により遣唐使請益僧(けんとうししょうやくそう)となり延暦二二(八〇三)年、第一回目の渡唐を試みますが激しい風雨により失敗。竈門山寺、宇佐宮、香春社(香春神社)に詣で、航海の安全を祈願しました。最澄は遼東半島や豊前国に住む新羅系の海商に援助を求めたのではともいわれています。
『叡山大師伝』によると、最澄が入唐に先立ち、香春社に詣で、法華院を建て法華経を講じたとのことです。これが賀春山神宮院で、最澄は延暦寺別院と定め六坊(高座石寺・東光寺・正蔵寺・功徳寺・大蔵寺・観音寺)を建立し、田川地方で十八寺を創建したと伝えられます。
最澄の帰朝は延暦二四(八〇五)年ですが、弘仁五(八一二)年に神恩報謝のために九州に下向し、宇佐宮・香春社・竈門社に詣でています。最澄の入唐は一年間の帰国であったため法華経と簡略化された一部の密教教典しか持ち帰ることができませんでした。同じ遣唐使船で入唐した空海は留学僧(るがくそう)であったため十年間の留学が義務づけられていましたが、恵果和尚(けいかわじょう)から密教の教えのすべてを授かるとわずか二年で帰国し、真言密教をもたらしました。
そのころ中国や日本では密教全盛のきざしがあり、最澄の弟子円仁の十年にわたる入唐によって密教が承和十四(八四七)年頃にもたらされました。空海の真言密教に対して天台密教と呼ばれ、朝廷の信認を受けながら発展していきました。入唐した円仁(慈覚大師)も香春神に対して神恩を謝しており、最澄・円仁とのかかわりは、承和四(八三七)年、香春神社の官社昇格と無縁ではないでしょう。
円珍(智証大師)の入唐の折も宇佐宮や香春社への神恩報謝はならいとなり、天台宗の田川地方への流入は九世紀後半から十世紀にかけて興隆期を迎えることになりました。
最澄の入唐に関連する内容から、宇佐宮や香春社との関係がみえてきます。
延暦二二(八〇三)年、風雨で失敗
延暦二三(八〇四)年、宇佐宮・香春社
延暦二四(八〇五)年、唐より帰国
大同元(八〇六)年、空海帰国(真言密教)
弘仁五(八一四)年、九州へ下向し宇佐宮と香春社に神恩報謝
田川地方への天台宗の広がり
最澄に関する記録や伝承は香春町の香春神社・神宮院・高座石寺・真行寺(大蔵寺)、田川市の観音密寺・風治八幡宮・白鳥神社・位登八幡神社・岩亀八幡神社・高源寺・成道寺・徳勝寺・正法寺・若宮神社・赤村の朝日寺(ちょうじつじ)など、たくさん伝わっています。朝日寺では最澄自らが観世音尊像を彫刻し一宇を建立したと伝えられています。高座石寺「普門閣」には最澄作と伝わる十一面観音が奉安されています。また、延享三(一七四六)年の風治八幡宮縁起では「八幡神の神恩に感涙した大師は帰朝後の弘仁五(八一五)年、伊田宮山の宮殿を大修理し、霊験あらたかな奇端を後世に伝えるため、風の一字を加えて風八幡宮とし、蓮台寺・長松壽院を開き神宮寺とした」とあります。
鎌倉末から室町時代にかけての香春社の社領は、夏吉、香春、京都郡、築城郡などに存在します。これらの地方は、八幡神勧請社の濃厚な地域です。宇佐宮の神宮寺である宇佐弥勒寺は最澄が宇佐宮に詣で法華教を講じて以来、天台宗との関係が密接となり平安期の北部九州における天台教学の中枢的役割をはたしてきました。天台宗が田川に広く伝わるとともに様々な伝承が付加されたのでしょう。田川地方では平安時代中期以降の田川郡内の宇佐宮領化の反映の中に、最澄の伝承を広く見ることができるのです。