高座石寺(こうぞうじ)の境内に細川幽斎の五輪の塔があります。幽斎は、安土・桃山時代の戦国武将であり歌人でもあり二条派歌学の正統を古今伝授により受け継ぎ近世歌学の祖といわれる人です。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男で、和泉守護細川元常(もとつね)の養子となり、本名は藤孝(ふじたか)、幼名を萬吉、剃髪して幽斎(従五位下兵部大輔(ひょうぶたいふ))と号を玄旨と言い、初め足利義晴・義昭に仕え、後に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え重用され、三条西実枝(さんじょうにしさねき)から古今伝授を受け近世歌学を大成させました。
幽斎と豊前(香春)との関わりは、天正十五(一五八七)年、秀吉の九州平定に供奉(ぐふ)したのが初例で、島津氏配下地の検地に幾度か訪れましたが、関ヶ原の戦いの功により丹後(たんご)一国の宮津から長男忠興(ただおき)が豊前一国と豊後国東(くにさき)、速見(はやみ)郡を加えた所領、三十九万九千石余りを賜わり、大名となったことによります。入国後、小倉城を本城とする、国内八支城体制を整えるにあたり孝之が香春城主(二万五千石)として赴きました。細川家の記録には次のように記されています。
「一豊前小倉より四里程脇かわらと申(もうす)所に高蔵寺といふ禅寺有、根元青竜寺より幽斎君丹後に御引入被成、三斎君又豊前に御移し被成候、肥後御入国の序高蔵寺住職の僧御国に来り、坪井村に寺地を給り、高蔵寺と号し、二代の後泰陽寺と改、則今の泰陽寺也右之通青竜寺以来御結縁の寺にて候へとも、今にては右高蔵寺の御宝塔も香花手向候者も無之体に付、泰陽寺中に移し可申志之由、今の泰陽寺物語也(「綿考輯録(めんこうしゅうろく)」巻八)」
慶長十(一六〇五)年春、三月三日に田川郡上野興国禅寺(あがのこうこくぜんじ)(福智町)に詣で、伝説の「墨染の桜」を孝之と共に鑑賞し、その後、たびたび豊前を訪れますが、病没の前年慶長十四(一六〇九)年六月に、飛鳥井雅庸(あすかいまさつね)が小倉に下向した折に歌興行を催し、香春でも一首を詠んだといわれています。
この塔は、総高一m八六cmです。凝灰岩製で、正面は南東を向いています。五輪各部を一石で造り、相輪部の宝珠(ほうじゅ)と請花(うけばな)は、嵌(は)め込(こ)みとなっています。正面には「泰勝院前兵部徹宗玄旨大居士神儀(たいしょういんぜんひょうぶてっしゅうげんしだいきょししんぎ)」の銘がはいっています。正面請花から笠、塔身、基礎に渡って、法名を大きく刻み、基礎下部の左右に「孝子敬白」を刻し、基礎上部の左右に、浅く紀年銘が刻してあります。種子は宝珠の正面と両側面の各部石に入り、背面は全く刻銘がありません。北部九州にあって、慶長の紀年銘を有した大型の五輪塔は数少なく、請花を方形に作り出した異形の五輪塔は、珍しいものです。この他、幽斎の「宝塔」は、京都南禅寺天授菴と熊本県泰勝寺跡に墓塔として廟所の中に祀られています。