コラム 佐賀鍋島の殿様もくぐった銅鳥居

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【関連地域】添田町

 英彦山門前に建つ大門「銅鳥居(かねのとりい)」、英彦山をこよなく崇敬した佐賀藩初代藩主鍋島勝茂公が寛永十四(一六三七)年に寄進建立したもので、銅無垢(むく)の鳥居は奈良吉野の銅鳥居など全国的にも珍しく重要文化財に指定されています。一説によると元は現在の参道中程にありましたが、貞享三(一六八六)年門前拡充に合わせて現位置に移し、その折、円筒を一個ずつ外したため、幅六mに対し、総高が六,七六mと低くなり、全体的にズングリとした形状になったといいます。

銅鳥居 添田町英彦山


 英彦山の参詣者は大門鳥居前庭の「勢溜(せいたまり)」で籠・馬を降り、潔斎(けっさい)して鳥居をくぐり、大講堂(現英彦山神宮奉幣殿、重要文化財)の建つ境内まで約八〇〇mの石段を登り参詣しました。この大門鳥居から真っ直ぐ伸びる英彦山参道を大門筋といい、往時両側には数多の宿坊が軒を連ねていました。鍋島家は鳥居から三〇〇mほどのところにある増了坊を定宿として、参詣していました。江戸時代には四二万戸にも達した檀家が九州一円から参詣する「彦講」、「代参講」が行われ、現在でも佐賀県神崎地区や小城(おぎ)地区などでは彦講が行われており、春三月十五日の御田祭や四月の神幸祭にお参りしています。

 またこの鳥居の頭上には金字の輝く「英彦山」の扁額が掛けられています。この扁額は享保十四(一七二九)年霊元法皇が下賜したもので、額の縁には八個の菊花御紋章があります。この時より「英」の冠字を戴いて、英彦山と称されましたが、呼び名は「ひこさん」と呼んでいます。 銅鳥居の特徴のもう一つは表面に刻まれた文字です。「瘤浩然」という豪快で節くれだった書の異名で有名な「洪浩然(こうこうぜん)」(一五八二~一六五七)が書き記したものです。彼は十六世紀後半、豊臣秀吉の「文禄・慶長の役」で普州において十二歳で孤児となり、俘虜として朝鮮に出兵していた鍋島直茂によって佐賀に連れてこられました。鍋島直茂・勝茂親子は浩然の才覚を愛し、佐賀藩士として召し抱え、京都に遊学させたのち、帰藩後は右筆としてそば近くに置きました。洪浩然は、李三平など朝鮮半島からの人々との結びつきの強い、多久家家臣の娘と結婚し、名実ともに佐賀藩に根をおろしました。明暦三(一六五七)年、勝茂公が江戸で亡くなると、浩然は佐賀市木原の阿弥陀寺で追腹をし、殉死しました。彼が家族に残した絶筆「忍」の一文字は彼の波乱の人生そのものを表しているかのようです。

(岩本教之)