英彦山は神霊の天降る山として天照大神(あまてらすおおみかみ)の御子神(みこがみ)、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が坐す「日子乃御山」として開かれました。
その根源的信仰として山上の祭祀があり、未来救済の仏弥勒菩薩の下生を祈り、多くの経塚が山頂三峰に営まれました。特に法躰岳(北岳)山頂磐境(いわさか)より出土した「王七房」の宋人銘経筒、朝鮮半島からもたらされた金銅製新羅仏の発見は仏教文化の渡来系受容層の関与が考えられ、北魏僧善正による英彦山の開山伝承(五三一年)とともに東アジアと連動していた古代英彦山信仰の姿を垣間見ることができます。
英彦山中興は『彦山縁起』によると弘仁一〇(八一九)年、宇佐法蓮上人が嵯峨天皇の詔勅(しょうちょく)を得て「山寺宜(よろ)しく日子を彦と改め、霊山を霊仙寺と号すべし。十方の万家をもって均(ひと)しく檀越(だんおつ)にあて、四境七里永く寺産として御願寺となし、七十州を鎮めて、海宇の富なることを祈れ」として、日子を彦と改めて、寺を霊仙寺と号し、四方七里を神領として九州総鎮守の御願寺とせよと下知されたと伝えています。法蓮は英彦山に帰り、諸堂を整え、山に三千の衆徒、邑に八百の坊を置いたといいます。
そして、玉屋般若窟に代表される四十九窟を体系化した山中行場が整備されるとともに、日子神と仏が習合した御正体として山頂三座に「彦山三所権現」が鎮座し、上宮、中宮、下宮を中心に英彦山十二所権現を配置する諸堂社が建立されました。院坊が各谷に配置され、組織的祭礼も「彦山権現」を讃える「松会(まつえ)祭礼」が増慶上人によって創出されました。このように山中行場、谷集落が完成するとともに大講堂を中心とする境内伽藍が平安時代末までに整えられ、「彦山霊仙寺」としての寺格が確立しました。
その背景として宇佐弥勒寺や大宰府安楽寺などの有力寺社や権門が荘園公領を得て、強大な力を蓄えたように、英彦山は独自の領域支配を展開し、山中惣大行事を中心として豊前六峯大行事と豊前・豊後・筑前三国三六ヶ村大行事を配置し、山麓七大行事とともに四十八大行事によって七里結界の神領域を守護しました。
英彦山修験道の最大の特徴は広大な神領と多くの宗徒を有しながらも、別当寺や山外別院を持たず、山中での一元的惣山支配を展開し、一山一寺として強固な勢力を培ったことに在ります。
しかし、戦国時代、豊後大友氏などの地域権力に翻弄されて、戦火に見舞われ、多くの諸堂が灰塵と化しました。また、天正十五(一五八七)年、豊臣秀吉の九州平定に際しては神領域を没収解体され、座主舜有(しゅんゆう)も遷化して英彦山は法灯消失の危機に直面しました。この窮地の中、座主となった昌千代が黒田勘兵衛叔父の小寺休夢斎、刑部少(ぎょうぶのしょう)輔大谷吉継、豊臣の加須屋真安などを通じ、幾度となく、秀吉に陣中見舞いなどを送り、赦免を願いましたが叶うことはありませんでした。近年、これら武将と取り交わした書簡や秀吉から送られた朱印感状等の古文書の内容調査を実施した結果、英彦山の苦悩を窺い知ることができるとともに、近世英彦山の復興に昌千代という「女性座主」が戦国武将と果敢に渡り合い活躍したことがわかりました。
そして、奇しくも関ヶ原の戦い直前の慶長五(一六〇〇)年三月五日、大老徳川家康の許しを得て、豊臣五奉行の長束正家・増田長盛・前田玄以が連署した「彦山五条壁書」が出され、「守護不入」などの復権を認め、地域権力による英彦山への介入を禁じ、英彦山の地位と神領を安堵しました。
更に豊前入りした細川忠興は「彦山座主跡目儀」に関して、近世初期の多くの寺社訴訟に係わり、上杉討伐、関ヶ原の戦いの発端となった「直江状」で著名な臨済宗相国寺(京都)西笑承兌(さいしょうじょうたい)和尚に日野大納言輝資(ひのだいなごんてるすけ)二男玄賀を委ね、自らの猶子として昌千代と結ばせ、忠興の一字を与え、十五代英彦山座主忠有として着座させました。座主忠有は慈眼大師天海僧正、土井大炊守(おおいのかみ)利勝の取持で徳川家康、秀忠に継目之御礼のため対顔しています。
そして、元和二(一六一六)年、細川忠興公を大願主として英彦山悲願の霊仙寺大講堂が再建されると寛永十四(一六三七)年に佐賀藩主鍋島勝茂公により銅鳥居が寄進建立され、寛文十一(一六七一)年には門前町として「彦山町」が置かれて、近世門前集落が完成しました。この後、数多の盛衰を繰り返しながら英彦山は、信仰の上に培われた文化により灰の中から何度も立ち上がり強固な歴史を刻んでいます。