秋の峰入のルートは、大任町から田川市内に入ると上伊田から糒の丘陵上に進んでいきます。そして金辺(きべ)川を渡り福智町に至り、いったん直方市内に出た後、尺岳より山地へと入り福智山に到達し、香春の採銅所の方へと進んでいます。修験道の峰入り道と関連の遺跡をたどってみましょう。
下今任(しもいまとう)(大任町)の野原八幡宮を過ぎると、上伊田(田川市)に入り、猫迫、下伊田を経て糒の上の原の台地に出ます。ここには、山伏塚と呼ばれる塚があります。修行についていけない新入りの山伏が息のあるうちに埋められたといいます。規模は、直径約五m、高さ約一・三で、一見土饅頭のようですが拳大の石が積まれています。現在のものは、工事で取り去られたものを復原しています。
さらに台地を北側に進み金辺川を渡ると古門(福智町方城)の白髪神社があり、近くには矢切の梵字(ぼんじ)岩があります。二m余りの自然石に大日如来を表す三つの梵字が刻まれています。この場所は、秋峰の修行の場といわれ、昭和の初めまで九月中旬に盛大な儀式があり、山伏の修行の一つである相撲も行なわれていましたが、今は途絶えています。ここから前村を経て伊方赤坂八幡を過ぎた道の側に、入峰の途中に倒れた新客を祀る我部堂(わらべどう)があります。子供の百日咳、夜泣きに効くという信仰があります。
弁城ノ宮(岩屋神社)(福智町弁城)で一宿します。
弁城の宮は明暦四(一六五八)年に弁城の岩屋から現在地に移転しました。元宮の岩屋権現と英彦山山伏の峰入との関係は明らかではありませんが、岩屋権現は福智山麓にあり、境内には水、岩窟、大岩、岩屋磨崖梵字曼荼羅(いわやまがいぼんじまんだら)があり、行場としての条件を備えているので福智山を中心とした修行遺跡であったと考えられます。岩屋磨崖梵字曼荼羅は、建武二(一三三五)年法橋良密という僧侶によって書き残されたものといわれ、境内の岸壁上部に普賢・大日・阿弥陀・不動の四種子を並列し、下方には金剛界四印会曼荼羅(こんごうかいしいんえまんだら)と、胎蔵界大日(たいぞうかいだいにち)の種子を左右対称の位置に刻んでいます。いずれも薬研堀(やげんぼり)の手法によるもので、書風、手法など鎌倉期の特徴を表すものとして貴重です。
上野宮(福智町上野)で一宿します。上野には福智権現をまつる福智の中宮と、下宮にあたる福智神社があります。中宮の社僧の坊である福泉坊は英彦山の末山にあたり福泉坊の弟子が英彦山の峰入りに新客として参加します。また峰入りの一行が上野宮に立ち寄った時、必ず福泉坊より酒や食物が差し出されました。
ここから鋤木田(すいきだ)(福智町上野)に向かいます。「鋤木田の酒屋、彦右衛門宅で休憩した」との記録があります。一般民家で休息するのはここだけです。鋤木田には、里安大明神と呼ばれる石塔が立っています。由来は明らかではありませんが、一説には、修験者が彦山の峰入の荒行の途中、この場所で倒れ命を落としたのを葬った跡ともいわれています。ここから、筑前の国へと入ります。
毘沙門天と呼ばれる空地(直方市上境)に、峰入りの途中に倒れた山伏の塚があります。次に対岸の藤棚に立寄り、お接待を受け加持を行います。永満寺薬師堂は明元寺(直方市永満寺)の門前にあります。畑村の山王権現(現日吉神社)から赤ハゲ(柞の木付近)を通り大日堂(中村付近)を経て頓野宮(とんのみや)(総田八幡:八幡神社と改称)に入宿します。
頓野より尺岳に駆け上がると「錫嶽(すずたけ)宿」に達します。中世には、黒崎~尺岳の道筋とその間にあった「鹿尾宿」から「石御座宿」まで九つの宿があったようですが、近世の記録には現れず廃絶したようです。このうち、「剱光鷹見宿」は、市ノ瀬(八幡西区)にある鷹見権現社の上宮(権現山)と推定されています。
近世以降は、尺岳から南に縦走し「福智宿」に至ります。福智山は、今より約千三百年の昔、金光明院教順大法師によって、法華経の霊山として開かれ山上には福智権現を祀る石祠が筑前側と豊前側に一つずつ置かれています。宝永四(一七〇七)年には、「座主様宿」と呼ばれる所で宿泊していますが、近世末期には福智山では宿泊しないのが通例となっていたようです。
福智山からは、南側に連なる山を縦走し採銅所(香春町)へと向かいます。
福智山頂と周辺には、豊碑、鐘山谷、鈴の窟など修験にいわれのある場所があります。また、白糸の滝は明治の頃まで梵音滝と呼ばれた神聖な修行場でした。坊として福泉坊がよく知られますが、盂蘭坊、富松坊などもあり、上野二区の小高い丘の上には、侵入するものを見張った国見ケ岩があります。