修験の道(春峰) 山伏さんの歩いた道Ⅳ

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【関連地域】添田町

《胎蔵界と金剛界》

 修験道ではあらゆるものを陰・陽対比して説明付けようとします。山伏さんが修験道の本尊として信仰する大日如来(だいにちにょらい)にも、胎蔵界(たいぞうかい)と金剛界(こんごうかい)という相対する二つの世界があります。

 金剛界は陽の世界、胎蔵界は陰の世界。金剛界は大日如来の智恵や堅固な意志を表し、天であり吽(うん)でありお父さんです。これに対し胎蔵界は大日如来の慈悲を表し、地であり阿でありお母さんの世界です。金剛界曼荼羅(まんだら)は九会(くえ)の曼荼羅とも言われ、三列三段、カクカクとした計九つの場面(会(え))で構成されています。一方、胎蔵界曼荼羅は八葉九尊の曼荼羅ともいわれ、画面中央の大日如来を中心に八葉の蓮華の花びらが取り巻き、そこから波紋が広がるように仏が配置されています。あらゆるものが生まれ出てくる根源を表し、それはまるで母の胎内のようでもあります。

 修験道の峰入りでは、この二つの曼荼羅にある仏・菩薩を山々・峰々の岩や窟、樹木、滝、あるいは祠等に配し、その諸尊を巡拝しながら途中に十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道・声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩・仏)修行等をおり込んで、仏の子として生まれ変わることを目指すのです。

 世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)は、修験道のメッカ吉野金剛界と熊野胎蔵界を結ぶ峰入り道ですが、九州の「大峯」は、それぞれに古くから霊山として信仰を集めていた英彦山と宝満山の二つの聖地を結ぶ峰入りです。岩のゴツゴツした宝満山の姿は「金剛界」とされるにふさわしく、一方、「峰に三千の仙人あり」といわれ、宗教的に豊かな教義や伝承を生み出し醸成した、そのような空気に満ちた英彦山は、母の胎内、胎蔵界とされるにふさわしいと考えられたのでしょう。

 胎蔵界から金剛界への峰入りは、母の胎内を出て、修行を積みながら智恵や強い意志を身につけていく修行ですので「順峰(じゅんぶ)」といい、逆に金剛界から胎蔵界へ峰入りすることを「逆峰」といいます。

 英彦山から宝満山に至り、帰ってくるまでのコースは全長一三〇km。その間に四十八宿(しじゅうはっしゅく)が置かれました。このうち往路七五kmは峰から峰への険しい修行路で七二日をかけ、帰路は里の道を三日で帰っています。このコースを彦山山伏は春峰・夏峰の修行をし、宝満山伏は秋峰の修行をしています。

《宝満山への道》

 英彦山春峰は、彦山最大の祭礼「松会(まつえ)」のクライマックス、二月十五日に入峰し、四月十日に出峰します。

 山伏一行は、まず英彦山内の下宮宿・備宿(そなえじゅく)・大南宿(おおみなみしゅく)でそれぞれ約一週間の籠山修行を行った後、岳滅鬼山から大日ヶ岳へと連なる稜線上の峰中路を経て、大日ヶ岳の腰に一泊し、翌日は宝珠山窟内に設けられた玉来宿に下って宿泊し、翌日は再び釈迦ヶ岳に登り、稜線伝いの行場で修羅界(しゅらかい)の修行である相撲をしたり、愛敬瀬戸(あいけいのせと)では仏の子として生まれ変わるための儀式「出生潅頂(しゅっしょうかんじょう)」をうけ、笙窟(しょうのいわや)での修行を勤めたりしながら、痩せ尾根の難所が続く山道をたどり、杉の大木の杜の中に営まれた小石原の深仙宿(しんせんしゅく)へ入りました。

英彦山南岳


平成25年 宝満山秋峰のルート図  作図:石橋弘勝


愛敬の瀬戸に於ける出生灌頂

提供:筑紫野市教育委員会


大南神社

提供:筑紫野市教育委員会


大日ヶ岳・釈迦岳と砥石峠

提供:筑紫野市教育委員会


 深仙宿は胎蔵界と金剛界が交わる場所。紀伊半島の大峯でも役行者が開いた最も重要な修法の場とされています。行者堂の前には円形に石を組んだ護摩壇(ごまだん)があり、秘水を守護する香精童子(こうせいどうし)の石牌、閼伽水(あかみず)を汲んだ香水池などに往時を偲ぶことができます。行者堂の中には桧材寄木造の役行者像が祀られ、その両脇に陶製の男女の山犬がいます。(註)

 註 前鬼・後鬼が盗難に遭ったため、役行者像はそのまま安置され、両脇に坐した前鬼・後鬼と山犬はレプリカとなり、本物の陶製山犬は小石原焼伝統産業会館に保管・展示されています。

小石原行者堂と護摩壇


 現在では「小石原(こいしわら)」といえば「小石原焼」を思い浮かべますが、作陶にあたっている人々の山伏に対する信仰は篤く、深仙宿における十日間の山伏修行は彼らによって支えられていました。行中の食料の差し入れはもちろん、入峰関係の祭器の製造、入峰のたびに山伏が植樹した杉も、作陶に大切な水源確保のためもあって、行者杉として今日まで立派に守られてきました。

 三月二十三日朝、兄弟嶽(けいていだけ)、大鼓宿を経て不動宿で七日間の籠山修行。四月一日未明には不動岩の上で採燈護摩が行われましたが、この火はここから真東五~六kmに位置する英彦山の集落に、胎蔵界修行を終えて、これから金剛界へ入るという決意を知らせる合図の烽火だったと伝えられています。

不動岩での採燈護摩


 ここから嘉麻峠、馬見山、古処山、大根地山(おおねちやま)などを経て宝満山に至る道は、それまでと違って、起伏の穏やかな道が続きますが、一箇所に留まる籠山修行がなく、毎日少しの食べ物、少ししか睡眠時間がなく、長距離の山道を歩き通さねばならず、途中で行き倒れになった山伏を石小積みにしたハンドウ仏などの山伏塚も数カ所に遺されています。

山ノ峠のハンドウ仏

提供:筑紫野市教育委員会


 馬見山山頂(九七八m)から少し下った北斜面の御神社岩の断崖は大峰山の西の覗きとよく似た地形であることから、「業秤(ごうのはかり)」という地獄の行が行われたと考えられます。

 馬見山の次の屏山(へいさん)(九二七m)山頂には天然の護摩壇の跡があります。屏山は英彦山と宝満山を結ぶ直線距離約三五kmの中間点に位置し、昔は両界岳と言われました。ここでも採燈護摩を焚くのですが、天気が良ければ、英彦山からも宝満山からも烽火のように見え、峰入りの進行を知らせるサインにもなりました。

屏山山頂での採燈護摩供  提供:筑紫野市教育委員会


 古処山(八六〇m)は秋月にあり、山頂に白山権現(現在は古処大神)を祀っています。ここでは「湧出(ゆうしゅつ)」といって峰入りの時、先回り度衆(どし)がここに不動明王を安置し、大地から仏が出現した形をとる演出をし、そこに納銭や投札をするといった秘法が行われました。

 古処山を出て、郡境の尾根を亀甲宿、野口宿、白川宿を経て夜須高原少年自然の家の近くの五玉(いつたま)神社に入ります。鳥居には「五玉山大権現」の額が昔のままにかけられています。一抱えもある丸い石を神体とする石の祠が五つ並び、その前に拝殿があります。次の臥手宿(ねじじゅく)は、大根地山(六五二m)の山上から三町下った東、現在の大根地神社と考えられ、いよいよ明日は宝満山に駈入るという大事な宿でした。

五玉神社に碑伝を打つ


 翌朝未明、供養法を整え発宿。米ノ山峠から三郡山(九三六m)、頭巾山(とっきんざん)へと向かいます。頭巾山には艶宿(つやじゅく)があり、いよいよ宝満へ入る前、ここで装束を改め、宝満山の法頭・年行事に駈入りの挨拶をし、獅子宿(ししのしゅく)へと案内され、様々なもてなしを受けました。獅子宿は直線距離三五km彼方にある英彦山の備宿と対面する形で建てられており、宝満山伏が英彦山に入峰した時には、備宿で様々なもてなしを受けました。

宝満山から英彦山の遠望 撮影:小鹿野亮


備宿跡


 宝満山中では、上宮、行者堂、中宮など、山中諸処で勤行などの儀礼をし、獅子宿に泊まって、釈迦誕生の四月八日早朝、宝満山を出発しました。

 帰路は英彦山参詣の人々が最も多く辿る里道を、米ノ山本村から元吉村宮、臼井村宮、千手村、西ノ郷村、大隈祇園宮を通り、午後五時頃、大隈の北斗宮に到着しました。翌日は、塔ノ上、石坂、嘉摩峠、小石原宮などで接待を受けながら、深仙宿高祖堂に入り本勤、次の日、長谷二の護法を経て、四月十日の朝八時頃英彦山に帰着しました。

 入峰修行を成就し験力を身につけた山伏は帰路の村々で大歓迎を受け、特別の祈願や護摩を焚くこともありました。村人からは様々な接待を受け、返礼に祈祷札が授けられました。

 明治の神仏分離以来、入峰修行が行われなくなって久しくなります。平成二十五(二〇一三)年四月二十五日より二十八日までの間、宝満山開創一三五〇年を記念して、宝満山修験会による英彦山入峰が行われました。彦山山伏が通ったのと同じ道を、逆に英彦山に向かって入峰したのです。この項に用いた写真はその時のものです。

(森弘子)