英彦山信仰の広がり 長崎にもある「ひこさん」物語

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【関連地域】添田町

 九州各地には「彦山神社」、「豊前坊」と呼ばれる小さな社や祠、石塔がいくつもあります。英彦山は稲穂神「天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」を祀る農耕の守護神として、古来より九州一円の信仰を集めました。江戸時代にはキリシタン禁制による寺請制度などにより英彦山の檀家が急増し、英彦山の山伏坊家には檀方帳が備えられていました。特に英彦山権現大天狗、牛馬守護、火伏神としての豊前坊信仰も深く浸透し、英彦山信仰の要として「豊前坊様」と呼ばれ、各地に祠、石塔が建てられて信仰されました。豊後大野市の「樋口の豊前坊様」など現在も地域で大切に祀られています。

 では、英彦山信仰はどのように広がっていたのでしょうか。江戸時代中頃の記録によると九州一帯に英彦山檀家が四二万戸にも達していたといい、春の英彦山大祭「松会(まつえ)」には代参者を立てて、お参りする「彦講」、「権現講」が行われ、参詣者は七万人もあったといいます。特に英彦山檀家が多かった地域は北部九州の農村部で、大庄屋、商人など上級の檀家も多くいました。英彦山山伏の昇進儀礼の「宣度祭(せどさい)」には多額の出資を必要としたことから、祭礼の施主となった檀家が施主料として多額の布施を行っていました。江戸時代の「宣度祭施主名簿」を見ると特に肥前の佐賀、長崎が多く、佐賀鍋島家は藩主自らが施主となって英彦山信仰を支えてきた地域ということが分かります。一番特徴的な長崎の例を見てみると、江戸幕府の鎖国体制の最中、特別区としての「出島」は高野聖などの行者、山伏の立入が禁じられていたにも関わらず、日行使と呼ばれる役人や阿蘭陀通詞(おらんだつうじ)、出島町人までもが、英彦山西坊の宣度祭施主を務めており、英彦山を盛んに信仰していたことが分かります。そのキッカケは元和元(一六一五)年、大賢坊巖盛が長崎市八百屋町に「彦山大権現」を勧請して、如意山正覚院神地寺と称え、本河内郷の彦山(三六八m)に上宮を営んで彦山末寺となったと伝えています。また、正徳年中(一七一一年頃)に五代日照坊覚潭が彦山北東に隣接する飯盛山中に豊前坊を勧請したことから山も「豊前坊」と呼称するようになったといいます。

大島地区の英彦山権現講水かけ祭り(神埼市千代田町)


長崎豊前坊(飯盛山)の石段(長崎市本河内)


樋口豊前坊様の石塔群(豊後大野市朝地町)


 この二つの山は長崎市街地から登れる低山として人気で、江戸時代から長崎商人が正月七福神に準えて巡る「七高山めぐり」のコースにもなっていました。「おくんち」で有名な「諏訪神社」からスタートし、「金毘羅山」、「七面山」「烽火山」、「秋葉山」、「豊前坊(飯盛山)」、「彦山」、「愛宕山」まで約一五kmのコースで、今も長崎の初詣と登山を兼ねた風物詩として親しまれています。

(岩本教之)